HISTORICAL PERSON · 1931年没

F・W・ムルナウ

ドイツの映画監督。サイレント時代の巨匠で、フリッツ・ラングらとともにドイツ表現主義映画を代表する監督。第一次世界大戦ではパイロットとして従軍した。

生涯
1931年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタ・バーバラ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ビーレフェルト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウは、1888年12月28日に生まれ、1931年3月11日に没したドイツの映画監督である。サイレント時代の巨匠で、フリッツ・ラングらとともにドイツ表現主義映画を代表する監督とされる。

生まれはドイツ帝国のビーレフェルトで、もとの姓はプルンペであった。のちの名は、バイエルンの町ムルナウ・アム・シュタッフェルゼーにちなんで名乗ったとされる。父ハインリヒは北西部にある布工場の所有者で、母はその2番目の妻だったため、2人の兄弟と2人の異母姉がいた。7歳のときからはカッセルで育った。自宅はしばしば、彼の演出する小さな芝居の舞台となり、12歳の頃にはショーペンハウアーやニーチェ、シェイクスピア、イプセンの戯曲を読んでいたという。ハイデルベルク大学に入って美術史と文学を学んだが、幼いころから興味を持っていた演劇の世界に入り、ベルリンのマックス・ラインハルトの指導の下で俳優となり、演出助手も務めた。画家フランツ・マルクらとも親しくなったとされる。やがて第一次世界大戦にパイロットとして従軍したが、スイスに不時着して抑留された。その間に舞台の演出コンクールで一等賞を取り、ベルンのドイツ大使館でプロパガンダ映画の製作に関わった。

終戦後の1919年、コンラート・ファイトとともに映画スタジオを設立して監督デビューした。第1作は、ゲインズバラの有名な絵画に着想を得た『青衣の少年』である。1920年にはスティーヴンソンの小説に基づく『ジェキル博士とハイド』を撮り、コンラート・ファイトとベラ・ルゴシが出演して、二重人格を主題とした。ただし無許可の翻案であった。1922年に監督した『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』を映画化したものだったが、ストーカーの未亡人に著作権侵害で訴えられ、1925年にフィルムの破棄を命じられた。様式化されたセットを使わずロケーション撮影を行い、ネガ反転やコマ落としなどの技法で不気味さと恐怖を描き出し、表現主義を代表する異色ホラーとなった。オルロック伯爵を演じたのはマックス・シュレックである。数本のコピーが救われたため、今日まで作品は残った。

その後ウーファ社に移り、脚本家カール・マイヤーと組んだ。1924年の『最後の人』では中間字幕を一切使わない試みを行い、映像技術とともに高く評価されて、表現主義の傑作と呼ばれ、代表作の一つとなった。カール・マイヤーの脚本による作品である。1926年には、ゲーテの作品に基づく『ファウスト』を製作した。翌1927年、ウィリアム・フォックスの招きでハリウッドに渡り、渡米第1作の『サンライズ』を撮った。この作品は、サウンドカメラによる撮影と移動撮影の映像美が高く評価され、アカデミー賞芸術作品賞を受賞して、サイレント末期を代表する作品となった。公然と同性愛者であり、結婚はしなかったとされる。1931年にドキュメンタリー作家ロバート・フラハティと共同で『タブウ』を完成させたが、その直後の3月11日、サンタモニカで自動車事故により死去した。42歳であった。遺体はシュターンスドルフの墓地に埋葬された。

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