伝記
アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルは、1859年5月22日、スコットランドのエディンバラで、スコットランド労務局の測量士補チャールズ・ドイルと妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として生まれた。アイルランド系のカトリックの家庭で、夫妻の子は9人、無事に育ったのは7人だった。大伯父の美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓を受け、複合姓となった。祖父ジョン・ドイルは風刺画家として名をなし、伯父たちも成功したが、父だけは出世せず、アルコール依存症のため1876年に仕事を失って療養所、のちに精神病院に入れられた。そのため幼少期から青年期の暮らしは貧しかったという。
裕福な伯父の支援で、1868年にイエズス会系の寄宿学校に入った。スポーツ万能でクリケット部の主将を務めたが、後年、体罰の激しさやイエズス会教師の頑迷さを批判している。1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリアの学校に1年留学した。母が家に置いた間借り人の医師に影響を受けて医師を志し、1876年にエジンバラ大学医学部へ進んだ。教授ジョセフ・ベルは、わずかな特徴から患者の経歴を言い当てる人物で、ドイルは彼をモデルにシャーロック・ホームズの着想を得たという。ダーウィンの進化論に共感して、カトリックの信仰からは徐々に離れた。学費の足しに医師の助手をつとめ、1880年には7か月にわたり捕鯨船の船医として乗船した。1881年8月に学位を取った。
卒業後はアフリカ行きの汽船の船医になったが、マラリアにかかって生死の境をさまよい、数か月で退職した。1882年5月にプリマスで同級生の診療所に加わったが、2か月もたたずに別れ、6月末からポーツマス郊外で開業した。8年続けたものの年収が300ポンドを超えた年はなかった。患者を待つ時間に短編小説を書いて雑誌に投稿するようになり、1885年には病死した患者の姉ルイーズ・ホーキンズと結婚した。1886年に執筆した長編が『シャーロック・ホームズ』シリーズの第一作『緋色の研究』で、25ポンドで買い取られ、1887年に発表された。1889年の歴史小説や、1890年のホームズ第2作『四つの署名』などで小説家として成功した。
1891年に診療所を閉めて眼科医に転じたが患者は来ず、これをきっかけに執筆に専念した。同年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編の連載を始めて爆発的な人気を得た。しかし歴史小説こそ本分と考えていたため、1893年の『最後の事件』でホームズを死なせた。1900年にボーア戦争が起こると医療奉仕団の医師として戦地に赴き、同年の総選挙には与党の自由統一党から出馬したが落選した。1902年に『南アフリカ戦争 原因と行い』を著してイギリス軍を擁護し、その功績でエドワード7世からナイトに叙された。1903年からホームズ短編の連載が再開された。「ジョージ・エダルジ事件」などでは警察の捜査のずさんさを暴き、冤罪を晴らすことにも力を尽くした。1912年に『失われた世界』でチャレンジャー教授シリーズを始め、SF小説にも進出した。
第一次世界大戦が始まると戦争遂行を支援し、各前線で士気を鼓舞する演説を行った。戦中の身内の死もあって心霊主義への傾斜を強め、晩年の活動はほぼすべてそれに捧げられた。クリケットなど多くのスポーツに打ち込む人でもあった。先妻ルイーズとの間に1男1女、後妻ジーンとの間に2男1女をもうけた。1930年7月7日に死去した。
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