伝記
パシテレスは、ユリウス・カエサルやポンペイウスの時代にローマで活動した、新アッティカ派の彫刻家である。小パシテレスとも呼ばれる。プリニウスによれば、大ギリシア、つまり南イタリアの出身で、ローマの市民権を与えられた。ローマには紀元前89年ごろに移り住んだともいわれる。生涯についてはよく分かっておらず、プリニウスが唯一の典拠だとされる。
当時のローマでは、名高いギリシア彫刻の複製や、それを変形した作品が求められていた。この需要に応えたのが、パシテレスとその弟子たちの工房である。弟子にはステファノスやメネラオスらがいて、その作品のいくつかは現存する。パシテレスは古い時代の厳格さと、ローマ彫刻の優美な形を結びつけようとしたとされる。弟子のステファノスの作とされるヴィラ・アルバーニの少年像にこの折衷主義がよく表れ、その弟子メネラオスはルドヴィージの群像「オレステスとエレクトラ」で、再びより単純な形に戻ったといわれる。
扱った素材は大理石、銀、象牙、青銅と幅広い。プリニウスによれば、メテッルスの神殿のために象牙のユピテル像を、オクタウィアの柱廊にあるユノ神殿のために像を制作した。大ギリシアの諸都市のために銀のゼウス像を、獅子の像も手がけたとも伝わる。同時代人ヴァロによれば、粘土の模型をつくらずに像を仕上げることはなかった。ヴァチカン美術館のアタランテ像や、カストルとポルクスの群像も彼の作とされることがあるが、確かではない。
パシテレスは著作家でもあり、世界の名高い作品について五巻の書物を著した。この書はプリニウスが「驚嘆すべき作品」と呼んだもので、現在は失われている。プリニウスは、打ち出し細工の銀器については、クセノクラテスらよりもパシテレスの方が信頼できる案内役だと述べる。複製してローマの建物を飾るこれらの作品は、元の文脈を離れて「古典的」なものとみなされていくことになった。
最期についてはプリニウスが伝える。テヴェレ川の波止場、マルスの野のそばで、檻の中の獅子を見ているとき、別の檻から逃げ出した豹に襲われて死んだという。新しい作品のために写生していたのかもしれないとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドリアのエウドロス (紀元前100)
- アーテミドーラス (紀元前100)
- ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前 100年(推定))
- Elephantis (紀元前100)
- クイントゥス・セクスティウス (紀元前 100年(推定))
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