伝記
アルフォンソ9世は、1171年8月15日にサモラで生まれ、1230年9月23日か24日に没した、レオン王(在位1188年から1230年)である。レオン王フェルナンド2世の長男で、母はポルトガル王アフォンソ1世の娘ウラカである。1188年1月に父が没したとき、16歳であった。継母ウラカ・ロペス・デ・アーロが、自分の子サンチョに王位を継がせようとしたうえ、ポルトガルとカスティーリャがレオンの分割を望み、王国は財政も破綻していた。それでも継母がレオン人の支持を得られなかったため、事は、アルフォンソ9世に有利に解決した。1188年の春に、サン・イシドロの回廊でコルテスを召集し、都市の代表が初めて国政に参加した。レオン、オビエド、サラマンカ、シウダー・ロドリーゴ、サモラ、アストルガなどの代表が加わった。財政難を解決するため、司法の改善と貴族の権力の乱用の廃止を約束した。これはヨーロッパ初の身分制議会とされる。
同じ1188年の6月、カリオンで従兄のカスティーリャ王アルフォンソ8世と会い、騎士に叙せられて、王の手に口づけし、臣従を強いられた。いくつかの国境の城も奪われた。1191年に、アラゴン王アルフォンソ2世、ナバラ王サンチョ6世、母方の叔父のポルトガル王サンシュ1世と、反カスティーリャ同盟を結んだ。同じ年、従妹のテレサ(サンシュ1世の娘)と結婚して、1男2女をもうけたが、この結婚は、教皇ケレスティヌス3世によって無効とされた。1192年には、教皇の働きかけで、カスティーリャと和睦した。
1195年、アルフォンソ8世がアラルコスの戦いでムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールに敗れると、それに付け込んで、再び反カスティーリャに走り、マンスールと同盟した。ナバラ王サンチョ7世と共謀してカスティーリャを挟撃し、西からティエラ・デ・カンポスに侵入した。しかし翌1196年に、アラゴン王ペドロ2世がカスティーリャに味方すると、苦戦し、教皇ケレスティヌス3世に破門され、家臣の服従も解かれて孤立した。1197年には、アルフォンソ9世と戦う者に、十字軍と同じ贖宥を与えると布告され、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの結婚で和睦するほかなかった。2人の間には、フェルナンド(のちのフェルナンド3世)を含む5人の子が生まれたが、教皇インノケンティウス3世の干渉で、1204年に離婚させられた。
レコンキスタには消極的で、1212年にアルフォンソ8世がムワッヒド朝との決戦を呼びかけたとき、参戦と引き換えに領土を要求して断られ、ポルトガル王アフォンソ2世との対立もあって、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いには加わらなかった。配下の騎士たちは参戦した。翌1213年には、アルフォンソ8世の頼みで、城の譲渡と引き換えに出陣したが、アルカンタラを落としただけでレオンへ引き上げた。1217年にカスティーリャ王エンリケ1世が夭折すると、ベレンゲラは、アルフォンソ9世のもとにいた息子フェルナンド3世を呼び寄せて王位につけたが、アルフォンソ9世は異議を唱えた。1218年には、サラマンカ大学を創設した。
1221年に教皇ホノリウス3世から、イスラム教と戦うことを求める勅書を受け取り、カラトラバ騎士団らと戦ったが、カセレスの包囲もバダホスの包囲も失敗した。それでも1229年にカセレスを落とし、翌1230年には、サンティアゴ騎士団と協力してメリダを奪い、バダホスも攻略して、南西部を平定したのち、59歳で没した。フェルナンド3世は、父の死後にレオン王位も継ぎ、カスティーリャとレオンの王位は統合された。
同じ年に亡くなった人物
- ボルテ (1230年代没)
- ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ (1230年)
- ヨハネス・ド・サクロボスコ (1230年代没)
- ペロティヌス (1230年)
- Guerin de Montaigu (1230年)
同じ地域に関係する人物
- テレサ・デ・レオン (1130年没)
- Pero Pardo de Cela (1483年没)
- デイヴ・ホーランド (2018年没)
- Antonio Guevara Norona (1545年没)
- フランシスコ・タレガ (1909年没)