HISTORICAL PERSON · 紀元前270年没

マルクス・ウァレリウス・コルウス

古代ローマの伝説的な英雄で、100歳まで生きたとされる。前349年にガリア人との一騎打ちで、兜に止まったカラスの助けもあり勝ち、「コルウス」(カラス)の名で呼ばれた。執政官を6度、独裁官を2度務めた。

生涯
紀元前270年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルクス・ウァレリウス・コルウスは、共和政ローマ前期の政治家・軍人で、古代ローマの伝説的な英雄である。パトリキのウァレリウス氏族の出で、父も祖父もマルクス・ウァレリウスといった。伝承では46年のキャリアのあいだに6度の執政官と2度の独裁官を務め、4度の凱旋式を挙行し、100歳まで生きたとされる。有能な将軍で民衆にも好かれたという。ただし年代の関係から、2度目の独裁官と最後の2回の執政官は、息子のもの、あるいは同名の仮定上のもう一人の息子のものが、彼に帰されたのではないかとも考えられている。

紀元前349年、ガリア人がラティウムに侵入した際、軍事トリブヌスとして執政官カミッルスのもとで従軍した。ガリア人の一人が一騎打ちを望むと、ウァレリウスは執政官の許可を得て応じた。このとき一羽のカラスが兜に止まり、兵士たちは神の加護を予感して祈った。カラスは戦いの間じゅう敵の顔を攻撃し続け、ウァレリウスは敵を討ち取ったという。この話が、カラスを意味するコルウスの呼び名の由来とされる。彼は褒賞を授かり、独裁官マンリウス・トルクァトゥスによって、不在のまま23歳で翌年の執政官に選ばれた。この年齢も、不在での選出も、当時としては異例であった。

紀元前348年に最初の執政官となり、国内外の争いは起きなかったが、疫病が広がり、元老院はシビュラの書を調べることにした。この年、ローマとカルタゴの間で条約が結ばれた。紀元前346年の2度目の執政官では、サトリクムに入植したウォルスキ人がラティウム同盟をあおっているとの情報を受けて先制攻撃に出た。サトリクムを陥落させ、マテル・マトゥータ神殿以外を破壊し、戦利品を兵士に分配して、4000人の捕虜を戦車の前に歩かせて凱旋した。紀元前343年の3度目の執政官の年には、サムニウム人に攻められたカプアが救援を求め、ローマへの全面的な服属を申し出た。ローマはサムニウムとの条約があったため、いったんは断ったが、この訴えに動かされて使節を送り、拒まれると開戦を決めた。第一次サムニウム戦争の始まりである。ウァレリウスはカンパニアに進み、ガウルス山とスエッスラの戦いに勝って凱旋式を挙行した。兵士たちからも慕われたという。

紀元前342年には独裁官となった。カプアに駐屯していたローマ兵が町を奪おうと企てたとされ、これを察した執政官が策を弄して散らしたところ、兵たちはアルバヌス山に立てこもり、ティトゥス・クインクティウスを将として担いでローマへ向かった。元老院はウァレリウスを独裁官に任じ、騎兵長官にルキウス・アエミリウス・マメルキヌスを選んだ。ウァレリウスは兵に人望があったため、まず交渉による解決を試み、リウィウスは和解を促す演説を彼に語らせている。反乱兵は恩赦を受けた。ただ、これは独裁官の措置ではなく執政官たちの措置だったとする別の伝承もある。紀元前335年の4度目の執政官ではカレスを陥落させて凱旋し、紀元前301年の2度目の独裁官ではエトルリアとマルシ族に勝って凱旋した。紀元前300年には5度目の執政官としてウァレリウス法を改め、アエクイ族を破った。紀元前299年には、戦死した執政官トルクァトゥスの補充執政官としてエトルリア戦線を引き継いだ。

公職を退いてのち、キケロの『大カトー・老年について』によれば、自分の農園に戻り、100歳で亡くなるまで農業に打ち込んだ。その老後は現役のころより幸福だったという。プリニウスによれば、その経歴で政務官職を21回得たとされ、おそらく古代ローマで最も長い政治的経歴であった。

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