伝記
アポロニオス・モロンは、ギリシアの修辞学者である。ロドスのモロン、あるいは単にモロンとも呼ばれる。生没年は伝わらないが、紀元前70年ごろに活動したとされる。小アジアのカリア地方の都市アラバンダの出身で、メネクレスの弟子だった。同じくアラバンダ出身の修辞学者アポロニオス・マラコスよりは数年若かったという。
のちにロドスに移り住み、そこで修辞学の学校を開いた。それ以前に、ロドスの使節としてローマを2度訪れている。使節団を率いたのは前87年と前81年とされ、最初はミトリダテス6世の側についたことをめぐる和平の交渉、2度目はカウノスの住民をロドスの支配に戻す問題のためだった。2度目の使節として元老院に迎えられた際に、若きキケロがモロンを知り、たびたび講義を聞きに通ったという。2度の使節で得た名声はローマでもロドスでも高く、それが自分の学校を開く力になった。ローマの法廷での評判は絶大で、外国の使節にも常に与えられるわけではない、ギリシア語で元老院に語りかける栄誉まで授けられた。
教え子にはキケロ、ユリウス・カエサル、セルウィウス・スルピキウス・ルフスらがいる。キケロは前79年から前77年のギリシア旅行の際にモロンに学び、カエサルもその数年後に学んだ。キケロとカエサルが雄弁家として名を成したのは、少なくとも一部はモロンの教えのおかげだろうともいわれる。モロンは、デモステネスの言葉を引いて、弁論で第一に重要なのは「発声と所作、発声と所作、さらに発声と所作」だと生徒に語ったと伝えられる。
キケロにまつわる逸話もある。授業の最中、モロンは自分はラテン語を知らず理解もできないと言って、キケロにギリシア語で公開の弁論をさせた。キケロの弁舌は見事で、居合わせた人々は称賛したが、モロンだけは動かず何も言わなかった。気分を害したキケロが何か言うよう求めると、モロンは、あなたを称え褒めるが、ギリシアの運命が嘆かわしい、私たちに残された唯一の富であり飾りである学識と雄弁までも、あなたによってローマへ移されてしまうからだ、と答えたという。
モロンは、豊かで飾りの多いアジア風の修辞を和らげようとし、簡素なアッティカ風への傾向を支えようと努めた。ホメロスについての著作もあったが、いまは残っていない。また、ヨセフスは『アピオン反論』の中で、モロンがユダヤ人を激しく中傷したと述べている。没した場所は分かっておらず、ヨセフスの記述から故郷か、ペルシア文化の色濃い土地に戻ったと推測する見方もあるが、ロドスで穏やかに没したと考えるのが最も自然とも言われる。
同じ年に亡くなった人物
- Pasiteles (紀元前100)
- ヒエムプサル2世 (紀元前100)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前57年の執政官) (紀元前 100年(推定))
- ボックス1世 (紀元前 100年(推定))
- ウァレリウス・アンティアス (紀元前100)
同じ地域に関係する人物
- ガイウス・ノルバヌス (紀元前80年代没)
- Onesikritos (紀元前289)
- ジャニベク・ギレイ (1636年没)
- バッキュリデース (紀元前450年没)
- Patriarch Neophytus VI of Constantinople (1747年没)