伝記
ロスチスラフ2世は、ロスチスラフ・リューリコヴィチとも呼ばれ、キエフ大公をつとめたリューリクの子である。母は、リューリクの2番目の妻で、トゥーロフ公ユーリーの娘とされる。1172年10月4日に、ルチンの町で生まれ、洗礼名をミハイルといった。父は、生まれた家の跡に、聖ミハイルの名の教会を建てた。トルチェスク公、ヴィシゴロド公、オーヴルチ公などをつとめ、キエフ大公には1204年からごく短い期間ついた。没年は1218年以降とも、1214年より前ともいわれる。はじめベルゴロドを領地とし、そこで結婚した。結婚した年は1187年とも、1188年6月30日とも、1189年ともいわれる。花嫁は、ウラジーミル大公フセヴォロド3世の2番目の娘ヴェルフスラヴァで、そのとき8歳だった。結婚式は、当時まれに見る豪華さで、20人以上の諸公が集まった。父リューリクは、多くの贈り物と、ブリャギンの町を新婦にあたえた。2人のあいだには、娘エヴフロシニヤがいた。
1189年、ハンガリー人にガーリチを追われた公ロマンは、リューリクに助けを求め、ロスチスラフを連れて、ガーリチの征服を図ったが、先遣隊がハンガリー人らに完敗して、ロスチスラフは家に帰された。1190年からは、父がキエフ大公スヴャトスラフと組んで行うポロヴェツ人との戦いに加わった。1190年の秋に、トルチェスクの町で見張りについていると、ポロヴェツ人は、ロスチスラフがいると知って、引き返した。冬、トルチェスクに来た黒帽族の有力者らが、ポロヴェツ人との戦いへの助けを求めた。ロスチスラフは、一族の公ロスチスラフ・ウラジーミロヴィチだけを誘って、黒帽族とともにポロヴェツ人の陣を突然襲い、女子どもと家畜を奪った。追ってきたポロヴェツ人は、ロスチスラフの旗を見ると逃げ出し、約600人が捕虜となった。1192年の秋、リューリクは、平和を望んで、息子が出陣することを許さなかった。1193年には、リューリクが、カネフでの和平のためポロヴェツのハンたちを招かせたが、交渉は実らなかった。決定的な勝利を収めたのは、1193年のこととされる。
1195年、妻の父フセヴォロドから、ボグスラフ、トリポリ、コルスンの町を与えられた。1198年ごろには、ヴィシゴロドを所領にしていたと伝わる。1203年(1200年とも伝わる)、ロマンが、リューリクを剃髪させて修道院に入れたとき、ロスチスラフも牢に入れられた。しかし、フセヴォロドが解放を求め、ロマンはロスチスラフを解き、さらにキエフ大公の座に就かせた。ロスチスラフは翌年まで大公の座にいた。1206年には、ヤロスラフ・ウラジーミロヴィチをヴィシゴロドから追放した。ある年代記には、1210年に白髪となったロスチスラフが、ガーリチから追われたという趣旨の記述がある。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンチン (ウラジーミル大公) (1218年没)
- テレサ・デ・ポルトゥガル (フランドル伯妃) (1218年没)
- アル=アーディル (1218年没)
- ベルトルト5世 (1218年没)
- Peter of Vaux de Cernay (1218年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。