伝記
ピエール・ヴァルドは、フランスの宗教運動家で、ヴァルド派の始祖である。ヴァルデスとも呼ばれる。1140年に生まれ、リヨンの裕福な市民だった。職業は商人とされてきたが、当時のリヨンでは商人層が育っておらず、教会が富を蓄えていたことから、近年は教会の管財人で、その立場を利用した高利貸しだったと考えられている。「ピエール」の名は、死後150年以上たった1368年ごろに現れたもので、のちにつけられた名ともいわれる。最初期の史料に見えるのは「ヴァルデシウス」という名だけである。
1173年ごろ、吟遊詩人が歌う聖アレクシス伝を聞いて感銘を受けた。友人が楽しい集まりの席で急死したことに打たれたともいわれる。町の神学博士に、自分の生きる道を尋ねると、持ち物をなげうって貧しい人に施すという聖書の句を教えられた。そこで妻に財産の一部を与えて離別し、娘たちを女子修道院に入れた。財産を四つに分け、妻、娘たち、損害を与えたと思う人々、貧しい人々に分けたという話もある。高利貸しで不正に得た利子を返して、全財産を売り払い、貧しい人にパンとスープを施した。聖職者に頼んで、ラテン語の聖書を俗語に訳させて学んだ。この翻訳が実際にあったかは、議論がある。リヨンで説教を始めると、多くの市民が共鳴し、清貧と説教を実践する人々が現れた。彼らは「リヨンの貧者」と呼ばれ、「裸のキリストに従う裸の人々」とも評された。
当時、一般の信徒が自ら説教を始めることはほとんどなかった。ヴァルドは教会から公式な説教の許可を得ようとしたが、リヨンの大司教に拒まれた。1179年、ヴァルドは弟子の一人とともにローマへ行き、第3ラテラノ公会議の機会に、教皇と司教団の直接の許可を得ようとした。教皇アレクサンデル3世は温かく迎え、清貧の誓願を承認したが、説教については保留とした。教皇庁の高位聖職者は冷ややかで、イングランド王ヘンリー2世の代表ウォルター・マップらが神学の細かい点を問うと、ヴァルドらは答えられなかった。ヴァルドらは公会議で退けられたが、まだ破門はされなかった。リヨンへ戻って、以前にも増して活動を続けたが、1181年に理解者だった教皇とリヨン大司教が相次いで亡くなった。1182年か1183年に、新任のリヨン大司教によって、ヴァルドらは町から追放された。
1184年、教皇ルキウス3世から破門され、異端と宣告された。それでもその決定には従わず、運動は北イタリアやフランスにまで広がった。1215年には正式に異端とされ、迫害が始まった。ヴァルドは、1205年から1207年ごろ、遅くとも1217年に死んだともいわれ、1218年ごろとする記述もある。プロテスタントは彼を先駆者の一人とみなし、ルター記念碑や宗教改革国際記念碑に、その名が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- ボリル (1218年)
- テレサ・デ・ポルトゥガル (フランドル伯妃) (1218年没)
- クチュルク (1218年没)
- アル=アーディル (1218年没)
- ロベール2世 (ドルー伯) (1218年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・フランソワ・サディ・カルノー (1894年没)
- Pauline Jaricot (1862年没)
- クロード・グディメル (1572年没)
- ギヨーム=アントワーヌ・オリヴィエ (1814年没)
- アマドゥ・クルマ (2003年没)