伝記
ジョンは、1166年12月24日に生まれ、1216年10月18日または19日に没したプランタジネット朝の第3代イングランド王である。在位は1199年から1216年で、初代のヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子にあたる。1169年、父がフランス王ルイ7世との協約で大陸の所領を上の3人の息子に分けた際、まだ2歳にもならないジョンは分与から除かれた。父はこれを憐れんで「領地無し」とあだ名をつけ、そこからジョン・ラックランド、すなわち失地王あるいは欠地王と呼ばれた。父は母との不仲もあって、愛情に恵まれなかった末子を最も愛したという。1177年に10歳でアイルランド卿を継いだが、その後もアイルランドを統治することはできなかった。
父の晩年の争いでは、当初は父についていたが、兄リチャードの勝利が確実になると寝返り、父を大いに失望させて、その死因になったともいわれる。1189年にイザベル・オブ・グロスターと結婚してグロスター伯領を継ぎ、兄リチャード1世からもノッティンガムなど6州を与えられた。しかし、リチャード1世が十字軍に出陣し、ドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と組んでイングランド王位を狙った。重臣や諸侯の支持を得られず果たせず、この事件はのちにロビン・フッド伝説にも取り入れられた。
1199年にリチャード1世が戦死すると、状況は一変した。兄ジェフリーの遺児アーサーは、フランス宮廷で育ち、当時まだ12歳であった。リチャードは遺言でジョンを後継者に指名し、ヒューバート・ウォルターらの諸侯や母アリエノールもジョンを支持したので、ジョンが即位した。ところが1200年にイザベルと離婚してイザベラ・オブ・アングレームと再婚したため、その元婚約者の訴えを受けたフィリップ2世との戦争になった。1203年にアーサーが幽閉先で失踪すると、人々はジョンが殺したと考え、ブルターニュの諸侯もジョンに背いた。ノルマンディーやアンジューなどは、ほとんど抵抗せずに降伏し、大陸領土の大半を失った。
続いて教皇インノケンティウス3世と対立した。カンタベリー大司教の任命をめぐり、教皇は両方の候補を退けてラングトンを任命し、ジョンが抵抗したため、1207年にイングランドは聖務停止となり、1209年に王は破門された。1213年、教皇がフランス王のイングランド侵攻を支持し、諸侯の反乱も計画されると、ジョンはイングランドとアイルランドを教皇に寄進して封臣となり、年額千マルクの支払いを約してようやく破門を解かれた。1214年、オットー4世らと組んでフィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てたが、7月27日のブーヴィーヌの戦いで連合軍が敗れ、占領地を放棄して撤退した。
その後、戦費のための臨時課税に不満を強めた諸侯が結束して蜂起し、ロンドンを制圧されたジョンは、1215年6月15日にラニーミードでマグナ・カルタを認めた。しかしすぐに教皇に訴えて無効を宣言させ、再び重税を課したため、諸侯はフランス王太子ルイを招いて第一次バロン戦争が始まった。ジョンは戦いのさなかに赤痢にかかり、1216年10月19日に没した。9歳の息子ヘンリーが王位を継ぎ、その名でマグナ・カルタが改めて発行された。ジョンは、イングランド史上最悪の君主の一人として扱われることが多い。
同じ年に亡くなった人物
- イド・ド・ロレーヌ (1216年没)
- Theodore II of Constantinople (1216年)
- 鴨長明 (1216年没)
- ショタ・ルスタヴェリ (1216年没)
- ザーヒル・ガーズィー (1216年没)
同じ地域に関係する人物
- エリナー・オブ・カスティル (1290年没)
- アグネス・ベーデン=パウエル (1945年没)
- アイヴァー・グラッタン=ギネス (2014年没)
- ルドルフ1世 (ライン宮中伯) (1319年没)
- Stanley Middleton (2009年没)