HISTORICAL PERSON · 1216年没

ザーヒル・ガーズィー

サラディンの息子としてアレッポを与えられ、叔父アーディルとの確執を経ながらも半世紀続く「アイユーブ朝アレッポ」王国の基礎を築き、哲学者たちを庇護した。

生涯
1216年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ザーヒル・ガーズィーは、アイユーブ朝のサラディンの息子で、1186年から亡くなるまでアレッポを治めた君主である。尊敬をこめて、「マリク・ザーヒル・ギヤースッディーン」(信仰の守り手、護りの王子)と呼ばれ、「アブー・マンスール」(勝利の人)というあだ名も得た。ヒジュラ暦568年ラマダーン月15日、西暦では1173年4月30日にカイロで生まれたとされる。1171年ごろの生まれとする説もある。兄にアフダル・アリー、アズィーズ・ウスマーンがいる。父サラディンは、息子たちのなかでもとくに彼を気に入っていたとされ、1183年にアレッポを手に入れると、すぐにこの町を彼に与えた。ザーヒルは11歳で、シリアで最大のイクター(分与地)を持つことになった。ところが6か月後、サラディンはアレッポの統治を、これを望んでいた弟のアーディル・アブー・バクルに任せた。3年後の1186年、今度は再びアレッポをザーヒルに与え、アーディルはエジプトに置いた。このときサラディンが与えた称号は「スルターン」で、アミールより格上だった。

哲学者スフラワルディーは、1183年にアナトリア半島のビザンツ帝国との国境あたりの町からアレッポへ来て、ザーヒルの庇護を受け、主な著作をアレッポで書いた。しかし一説によれば、その「異端的」な思想がザーヒルに悪い影響を及ぼすのを恐れたサラディンの命令で、ザーヒルはスフラワルディーを殺さねばならなくなった。彼が「殺された人」を意味する「マクトゥール」とあだ名されるのは、1191年ごろの、この事件による。

1193年にサラディンが亡くなると、アーディルがエジプトを中心にしたアイユーブ朝の内部で発言力を増し、ザーヒルは政治的な影響力を失った。10年弱のあいだ、ザーヒル軍とアーディル軍は小競り合いを繰り返したが、勢力圏は大きく変わらなかった。ザーヒルは、兄たちの争いに加わらず、アンティオキアのフランク人の動きを見張った。兄アズィーズが死ぬと、兄アフダルはザーヒルと同盟し、二人は叔父アーディルをダマスクスで包囲したが、アーディルは二人の家臣の諸侯を丸め込み、兄弟の仲にも不信を生じさせて、包囲は解かれた。ザーヒルは、アーディルの家臣となることを認めて、領地を保った。ザーヒルは、勢力圏の確保と拡大に努め、交渉、威迫、ときには戦いも含むあらゆる手段で、アレッポ周辺の城を手に入れた。1207年に獲得したラタキアの港は、とくに重要で、これで地中海への出口を得て、同年ヴェネツィア共和国と貿易協定を結んだ。この協定は、のちの1225年、1229年、1254年にも結ばれた。北のアルメニアとは常に対立していたが、1207年に一度だけ、アーディルの仲裁で和睦した。1212年には、アーディルの娘と結婚し、アーディル領から旅してきた彼女を、丁重に出迎えて、后とした。

ザーヒルは、哲学者スフラワルディーのほか、イブン・アラビーとの交流でも知られる。イブン・アラビーによれば、ザーヒルは、王権におもねって勝手な法解釈をする領内のウラマーに、内心強い不満を持っていた。ザーヒルは、ヒジュラ暦613年第2ジュマーダー月23日の夕刻、アレッポ城内で亡くなった。この日は、582年に彼が同城に入った日と同じだった。いったん城内に葬られたが、息子アズィーズの後見人、宦官のシハーブッディーン・トグリルが、学院を広げる際に、新たな霊廟に遺体を移した。ザーヒルの政権は「アイユーブ朝アレッポ」と呼ばれ、1260年のモンゴルの侵攻で滅びるまで続いた。

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