伝記
大正天皇は、1879年(明治12年)8月31日、東京府の青山御所で、明治天皇の第三皇子として生まれた日本の第123代天皇である。諱は嘉仁、御称号は明宮という。生母は権典侍の柳原愛子で、明治天皇の唯一成人した皇子である。生誕時より病弱で、全身に発疹がある虚弱な状態で生まれ、9月から11月にかけて断続的な嘔吐や痙攣に襲われてかなり危険な状態に陥った。伝統に従い、12月に里子として中山忠能邸に移ったが、実の祖母の中山慶子を中心に養育が行われた。主治医の浅田宗伯と慶子が相談して、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳でようやく歩けるようになった。
小学校入学の年齢になっても病気がちのため、青山御所内に御学問所が作られ、個人授業が行われた。規則に縛られることを嫌う性格から、授業が気に入らないと投げ出すこともあったという。1887年8月31日に満8歳となったのを機に儲君、かつ美子皇后の実子と定められ、同年9月から学習院予備科に通い始めたが、病気がちで留年した。1889年2月に東宮御所に移り、11月3日に立太子礼が行われて皇太子となった。同時に陸軍歩兵少尉に任官した。以後、教育体制は軍事色が強まり、軍人に囲まれる生活で、皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定になっていった。1894年8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され、中等科1年の修了をもって学習院を退いた。1895年には風邪と腸チフスに罹り、さらに軽い肺結核で重体になり、11月まで寝込んだ。
1899年、有栖川宮威仁親王が東宮輔導となって養育の全権を与えられると、詰め込み教育を改め、健康第一に転換した。皇太子妃選びでは、伏見宮家の禎子女王が内定していたが、侍医らが肺病の疑いを発言し、1899年3月に婚約内定が取り消された。その後、体が丈夫で性格も悪くないという理由で、旧摂関家出身の九条節子が妃候補に浮上した。1900年5月10日に結婚し、のちの昭和天皇をはじめ4人の皇子をもうけた。結婚の祝いには、東京国立博物館表慶館の建設資金の募金なども行われた。威仁親王は皇太子の健康な身体と精神を育てるため、長期的な地方行啓を発案した。1900年10月に福岡、佐賀、長崎、熊本の各県を行啓し、1902年には群馬、長野、新潟、茨城の各県を巡った。これらにより皇太子の健康は回復し、学習の効率も上がったが、気まぐれな性格が助長された。1908年から1912年にかけても各地を訪れ、沖縄県を除く全国を訪問した。
1907年10月には、伊藤博文の提言で、史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した。随行した威仁親王、東郷平八郎らと東京を出発し、仁川に上陸して、漢城に滞在した。このとき李垠を気に入り、朝鮮語の学習に熱意を見せ、即位後も続けた。1912年7月30日、父の崩御に伴い第123代天皇に即位した。即位式の翌年ごろから健康状態が悪化し、日常生活にも支障を来すようになった。1920年以降、病状が公表されて知られるところとなり、1921年、長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任して、療養生活に入った。体調はその後も回復せず、1926年12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御した。
同じ年に亡くなった人物
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- チャールズ・マリオン・ラッセル (1926年没)
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