伝記
プレーク・ピブーンソンクラームは、1897年7月14日にバンコク近郊のノンタブリー県で、農業を営む華人の父キートとタイ人の母サームアンの二男として生まれたタイの政治家である。耳の付き方が変わっていたため、「おかしな」を意味するプレークと名付けられたという。1913年にラーマ6世が名字令を出すと、一家はキータサンカの姓を名乗った。少年時代にチュラチョームクラオ陸軍士官学校で学び、1915年に60人中12番目の成績で卒業した。1921年に参謀学校に入って首席で卒業し、官位と欽錫名ピブーンソンクラームを与えられた。のちに、この男爵の呼称は国王に返上し、1941年からピブーンソンクラームを姓とした。首席卒業の特典として、1924年からフランスへ3年間留学し、ヨーロッパ式の近代的な民主主義思想に触れた。
帰国後、人民党に入党して1932年の立憲革命を起こし、その後は最初の3代の首相マノーパコーンのもとで閣僚を務めた。1933年に起きたボーウォラデート親王の反乱を鎮圧し、翌年に成立したパホンポンパユハセーナー政権で陸軍大将に就いた。若くして地位を得たことから政敵も多く、1934年2月と1938年11月には襲撃され、同年12月には食事に毒を盛られて暗殺されかけた。1938年12月、パホンポンパユハセーナーの不信任に伴う投票で、ピブーンソンクラーム自身が得た票はわずか5票だったが、陸海軍の支持を受けて12月20日に首相に就任した。身の危険を感じた彼は、翌年1月に王族、官僚、議員ら51名を逮捕し、うち18名を処刑した。
続いて「ラッタニヨム」と呼ばれる愛国主義政策を次々に打ち出し、国名をサヤームからタイに改め、服装を制限し、タイ文字を改めた。これは華人をタイ人化する同化政策であり、国民統制の性格も持っていた。同時に華語学校をすべて閉鎖し、華語新聞を1紙に絞り、たばこ産業を独占するなど強硬な策をとった。王室財産局を設けて、王室や王族の財産を制限しようとしたのも彼である。第二次世界大戦が勃発した1940年6月には、フランスと日本それぞれと同じ日に不可侵条約を結んだが、ドイツがフランスを占領すると9月に対仏国境紛争を始めた。1941年に日本の仲介で東京条約が結ばれ、旧タイ領の4県が返還されると、この功績により7月に元帥に昇格した。
1941年12月8日、日本軍がタイ領に侵攻した。5日と7日に日本の大使が通過の許可を求めて訪れたが、彼は意図的にバンコクを不在にしていた。各地で抵抗が起き、タイ側は183人、日本側は141人が死亡した。11日、日本軍の通過に関する協定を承認した。自身は「山の上から岩石が落ちてきたようなもの」と述べて乗り気ではなかったが、機密事項に失地回復への日本の協力があったことから態度を改めた。1942年1月、イギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、英国と米国に宣戦布告し、タイは枢軸国側に立った。他方、プリーディーら閣僚が加わった抗日運動「自由タイ」を知りながら、黙認したという。1943年2月に辞表を出して、2日後に撤回したが、1944年7月、人民代表院が彼のペッチャブーン仏教都市の計画を否決して不信任案を突きつけると、辞表を出して首相を退いた。
戦後は戦争犯罪人法により投獄されたが、1946年4月に同法が無効とされて釈放された。1947年11月には、インドシナの共産化に対する軍部の危機感を背景に、軍部に「政変団」を組織してクーデターを起こし、首相はクアン・アパイウォンに代わった。1964年6月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルター・ブルーメ (航空技術者) (1964年没)
- ビレ・ペルヘレ (1964年没)
- イアン・フレミング (1964年没)
- H・ビーム・パイパー (1964年没)
- フランス・エーミル・シランペー (1964年没)