HISTORICAL PERSON · 1213年没

ムハンマド・ナースィル

ムワッヒド朝の君主としてイフリーキヤの反乱鎮圧に一定の成果を上げたが、ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍に大敗し、王朝衰退の契機を作った。

生涯
1213年没
死亡地
モロッコ王国(ラバト=サレ=ゼムール=ザイール地方 / ラバト)
出生地
—
出典
世界地図
モロッコ王国(ラバト=サレ=ゼムール=ザイール地方)

伝記

ムハンマド・ナースィルは、ムワッヒド朝の第4代アミール(カリフ、在位1199年から1213年)である。ムワッヒド朝の最盛期を築いた父ヤアクーブ・マンスールの子で、1182年ごろに生まれた。1198年に父から後継者に指名され、翌1199年1月25日に父が没すると、17歳で即位した。

ナースィルの治世には、軍の中心がマスムーダ族から雑多な外人部隊に代わり、王朝を支えてきたタウヒード主義の運動への熱意はうすれ、王朝はしだいに弱くなっていった。イベリア半島では、カスティーリャ王アルフォンソ8世と休戦していたため平和であったが、チュニジア(イフリーキヤ)は、ムラービト朝の後裔であるガーニヤ族のヤフヤー・イブン・ガーニヤに占領されていた。ナースィルはガーニヤ族の討伐に軍を送った。スース地方では、スース人らの反乱も起こった。1203年12月、ガーニヤ族の拠点であるマヨルカ島へ遠征してこれを占領したが、ヤフヤーらはイフリーキヤやモロッコで姿を現しながらゲリラ戦で抵抗を続け、ムワッヒド朝に反対する部族をあおった。ナースィルは、ヤフヤーをなかなか捕らえることができなかったが、討伐とイフリーキヤの平定を任せたイフリーキヤ総督アブドゥル・ワーヒド(ハフス朝の始祖アブー・ザカリーヤー1世の父)の働きで、1209年にヤフヤーを破り、ようやくイフリーキヤは安定に向かった。

その間に、イベリア半島では十字軍が結成され、アンダルスのムワッヒド朝の領土をおびやかした。教皇インノケンティウス3世とロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダは、1209年までに、カスティーリャ王アルフォンソ8世、レオン王アルフォンソ9世、アラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世を和睦させ、ムワッヒド朝との決戦に備えた。同じ年、アルフォンソ8世が休戦を破って国境に侵攻し、ナースィルは抗議したが無視された。1211年、アンダルスのムスリムの訴えを受けて懲罰遠征を決意し、4月から5月に自ら大軍を率いて、ラバトからジブラルタル海峡を渡り、6月にセビリアに着いた。9月にサルバティエラ城を落としたが、トレドまでの遠征はできず、セビリアで冬を越しながら、モロッコからの援軍を呼び集めた。アルフォンソ8世も、ペドロ2世とサンチョ7世の援軍やフランスからの参加者を加えて十字軍を集め、1212年の春までに双方は決戦に向けて兵を増やしていった。

1212年7月16日、ナバス・デ・トロサの戦いで、アルフォンソ8世らの連合軍に敗れ、アンダルスへの支配力を失った。敗因は、1211年にラバトからアンダルスへ渡る前に軍への補給を怠ったとして、ナースィルがモロッコ人の役人たちを処刑し、1212年の決戦の前には、十字軍に城を明け渡した守備隊長を処刑して、モロッコ人やアンダルス人の反感を買ったことで、兵の士気が下がったことなどにある。戦闘になると、タウヒードの思想を失い、戦意も王朝への帰属意識もない兵士たちは逃げ出し、ナースィルも本営に敵が迫ると逃げた。この戦いで、ムワッヒド朝は、10万人から50万人ともいわれる戦死者を出し、父マンスールの時代に最盛期を支えた軍はほとんど壊滅した。ナースィルの威信は失われ、首都マラケシュへ逃げ帰ったが、政治への意欲をほとんど失い、翌1213年に失意のうちに没した。死因は事故死とも毒殺ともいわれ、詳しいことは分かっていない。息子のユースフ2世が幼くして跡を継ぎ、ベルベル人のマリーン族の反乱など混乱が重なって、ムワッヒド朝は急速に衰えていった。

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