伝記
ハサン2世は、1929年7月9日にフランス保護領下のモロッコの首都ラバトで、スルターンのムハンマド5世と第2夫人ララ・アブラの長男として生まれた。アラウィー朝の一員で、イスラム諸学をフェズの宮廷で学んだのち、ラバトの王立学院に入った。この学院ではアラビア語とフランス語で授業が行われ、彼のために特別な学級が設けられた。マフディー・ベン・バルカが4年間数学を教えたといい、1948年6月に同学院でバカロレアを取得した。さらにボルドー大学の分校で学び、1951年に法学の学位、1952年に公法の修士号を取得し、フランス海軍の巡洋艦に乗務した。1943年、12歳のときには、父とともにカサブランカ会談に同席し、ルーズヴェルト、チャーチル、ド・ゴールに会っている。
1953年8月20日、ムハンマド5世がフランスによって廃位され、父とともにコルシカ島、翌年にはマダガスカルへ送られた。その間は父の政治的顧問として行動した。独立派に対するフランスの態度が軟化し、1955年11月16日に一家は帰国した。1956年2月に父の独立交渉に同行し、4月にはモロッコ軍の幕僚長に任じられ、同年のリーフでの反仏闘争ではベルベル人の軍隊を指揮した。1957年に父が君主の称号をスルターンから国王に改めると、ハサンは王太子に宣言された。1961年3月3日、父の崩御を受けて国王に即位した。
治世は保守的で、アラウィー朝の統治をいっそう固めたが、政党や封建的な官僚との権力の共有を拒んだため、政治的な抗議が強かった。1962年に最初の憲法を公布して立憲君主制と複数政党制を定める一方、王権に広い執行権を残した。1963年にはアルジェリアとの砂戦争が起き、1965年のカサブランカの抗議の後には非常事態を宣言した。1969年にはスペインからシディ・イフニを取り戻している。1970年代初めには、軍の内部に抗議が広がり、2度の暗殺未遂が起こった。1971年には陸軍士官候補生による襲撃があり、1972年にはフランスからの帰途のボーイング727機を、モロッコ空軍の軍用機が砲撃した。どちらも切り抜けて、権力を集中し、軍と政治体制を掌握する決意を強めたとされる。
1975年には、スペイン領サハラへの領有を主張して「緑の行進」を組織し、それ以後も西サハラの領有権を主張している。アラブ世界とイスラエルの対立では、初期の交渉の仲介役を担うことが多かった。1960年代から1990年代にかけては「鉛の時代」と呼ばれ、反体制派が暗殺されたり行方不明になったりしたが、本人は議会制を維持し、1991年には数百人の政治犯を釈放した。1961年にラーラ・ラティファ・ハンムと結婚して5人の子をもうけ、長男のムハンマドが後を継いだ。1999年7月23日に崩御し、死後にはこの時代の人権侵害を調べる衡平和解委員会が置かれた。その名はテニスのハサン2世グランプリ、ゴルフやサッカーの大会にも残り、かつてのモロッコ・ディルハム紙幣には肖像が使われていた。日本との縁も深く、日本人女性をマッサージ師に雇い、賃上げの要望をはっきり伝えた彼女を正直だとして、かえって信頼したという。
同じ年に亡くなった人物
- Sufia Kamal (1999年没)
- ホアキン・ロドリーゴ (1999年没)
- Frank Lubin (1999年没)
- フセイン1世 (1999年没)
- ユルゲン・モーザー (1999年没)
同じ地域に関係する人物
- Ahmed Bahnini (1971年没)
- ムハンマド・ウフキル (1972年没)
- マーティ・ボウアビッド (1996年没)
- サイド・ベルコーラ (2002年没)
- アマニ・ディオリ (1989年没)