伝記
フセヴォロド3世は、ウラジーミル大公で、短い期間、キエフ大公にもなった。1154年に、ユーリー・ドルゴルーキーの子として生まれ、洗礼名をドミートリーという。祖父は、ウラジーミル2世モノマフで、異母兄にアンドレイ1世がいる。モスクワ北方の町ドミトロフは、フセヴォロドの誕生を記念して建設された。母は、ギリシア人の公女ともいわれる。1162年、アンドレイに、母や兄弟のヴァシリコ、ムスチスラフとともに追われ、コンスタンティノープルの皇帝マヌエルのもとへ移った。15歳でルーシに戻り、アンドレイと和解して、1169年には、ほかの諸公とともにキエフ攻略に加わった。1170年にはティフリスを訪れ、グルジア王が、コンスタンティノープルから来た甥の彼を迎え、親族のオセット人の公女と結婚させたとする年代記の記述がある。1173年、キエフで従兄弟のダヴィドらに捕らえられ、のちに解放された。
1174年にアンドレイ1世が殺されると、ウラジーミル大公国では、フセヴォロドとその兄ミハイルの叔父側と、ムスチスラフ、ヤロポルクの甥側の内紛が起こった。新しい都市ウラジーミルの支持を受けた叔父側が、古い都市ロストフとスーズダリの支持を受けた甥側に勝ち、ミハイルがウラジーミル大公となって、フセヴォロドはペレヤスラヴリ公となった。1176年にミハイルが死ぬと、フセヴォロドはふたたびムスチスラフを退けて、ウラジーミルの市民に公として招かれた。1177年には、ムスチスラフの同盟者であるリャザンのグレプを破り、捕らえた。グレプは、ウラジーミルの牢で死に、ロスチスラヴィチ兄弟のうち1人は目をつぶされて釈放された。
1180年代には、ヴォルガ・ブルガールに目を向け、1183年と1185年に遠征した。1185年には、リャザン公国にもふたたび侵入した。1186年には、ゴロジェッツからブルガールへ遠征軍を送った。1189年には、ガリチの公で姉妹の子であるウラジーミル・ヤロスラヴィチを保護下に置いた。1194年にキエフ大公スヴャトスラフが死ぬと、フセヴォロドは、南の勢力の動きに強い影響を保とうとした。1198年4月か6月には、ドン川流域のポロヴェツ人に遠征して、冬営地を襲い、彼らは海のほうへ逃げなければならなかった。1205年には、長男コンスタンチンをノヴゴロドへ送って統治させた。
フセヴォロドの治世は、ウラジーミル・スーズダリ地方がいちばん盛んだった時期にあたる。成功の理由は、ウラジーミル、ペレヤスラヴリ・ザレスキー、ドミトロフ、ゴロジェッツ、コストロマ、トヴェリといった新しい都市に頼ったことにある。守護聖人にちなんで、聖ドミートリーの教会も建てた。子が多く、12人の子のうち8人が男子で、大巣公と呼ばれた。息子にはコンスタンチン、ユーリー2世、ヤロスラフ2世らがおり、孫にはアレクサンドル・ネフスキーがいる。初めて公式にウラジーミル大公を名のった。妻は、オセット人といわれるマリヤで、のちにヴィテプスク公ヴァシリコ2世の娘リュバヴァと再婚した。リュバヴァとのあいだに子はなかった。
1212年4月15日、全ルーシの大多数の諸公から「父」と敬われ、キエフを含む全土に大きな力を振るったフセヴォロドが死去した。このとき、年長権を、対立していた長男コンスタンチンではなく、次男ユーリーに譲った。
同じ年に亡くなった人物
- ベルンハルト3世 (ザクセン公) (1212年没)
- 法然 (1212年没)
- ヴァロワの聖フェリクス (1212年)
- ベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェン (1212年没)
- フィリップ1世 (ナミュール侯) (1212年没)
同じ地域に関係する人物
- マルファ・ソバーキナ (1571年没)
- マリヤ・テムリュコヴナ (1569年没)
- スヴャトスラフ3世 (1252年没)
- ミハイル1世 (キエフ大公) (1176年没)
- アレクセイ・プロクロロフ (2008年没)