伝記
ミハイル1世は、ユーリー・ドルゴルーキーの子で、ミハルコ・ユーリエヴィチとも呼ばれる、ウラジーミル大公である。1145年から1153年のあいだに生まれたとされ、1151年にスーズダリで生まれたともいう。ユーリーの二度目の妻の長男にあたる。ミハイルは、異母兄アンドレイ・ボゴリュブスキーが母を嫌っていたため、1162年ごろ、スーズダリの地から追われた。1162年から1169年まで、チェルニゴフに近い小さな町オストルに住んだ。歴史家タチーシチェフは、行き先はゴロジェッツだったと推測している。
1168年に、キエフ大公ムスチスラフの、ポロヴェツ人に対する遠征に加わった。同じ年、黒帽子族の部隊とともにノヴゴロドに派遣されたが、モノマフ家の公たちに捕らえられた。解放されたのは翌年で、このとき兄アンドレイから、ポロシエに築かれていた入植地トルチェスクを受け取った。1170年には、ポロヴェツ人からペレヤスラヴリを守った。
1171年(1172年ともいう)、弟グレプが死ぬと、アンドレイはミハイルをキエフの統治者に任じた。ミハイルは大公の座に就くことをはじめは断り、弟のフセヴォロドをキエフに送り、自分はトルチェスクにとどまった。ところが、キエフ大公位を求めるロスチスラヴィチ家の公に包囲され、和睦して、拠点をペレヤスラヴリに移すことを認められた。翌年、アンドレイが南ルーシに攻め入ると、ミハイルは和睦を破り、兄に忠誠を誓った。1173年には、アンドレイとともに数か月にわたり、キエフ大公位をめぐる争いに加わった。
1174年に兄アンドレイが死ぬと、ミハイルはウラジーミル大公となった。しかしスーズダリとロストフのボヤーレたちとの折り合いが悪く、チェルニゴフへ去った。ウラジーミルの人々は、ほどなくミハイルを呼び戻した。アンドレイの甥、つまりミハイルの甥にあたるヤロポルク・ロスチスラヴィチと戦うためである。ミハイルはこの甥を破り、1175年に再びウラジーミルの公位を得た。一年ほど治めたのち、1176年6月20日に死んだ。跡は弟のフセヴォロド3世が継いだ。高い徳を備えた人物として、記憶されたという。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・アサーキル (1176年)
- リチャード・ド・クレア (第2代ペンブルック伯) (1176年)
- 六条天皇 (1176年没)
- ロザモンド・クリフォード (1176年没)
- マチュー1世 (ロレーヌ公) (1176年没)
同じ地域に関係する人物
- ワシーリー・シュリギン (1976年没)
- ニコライ・アンドリアノフ (2011年没)
- アレクセイ・プロクロロフ (2008年没)
- ミハイル・ヤロスラヴィチ (1318年没)
- イヴァン・イヴァノヴィチ (ツァレーヴィチ) (1581年没)