HISTORICAL PERSON · 1176年没

ミハイル1世 (キエフ大公)

兄アンドレイ・ボゴリュブスキーの死後、スーズダリ住民との対立を経てウラジーミル公位に復帰したが、翌年死去した。

生涯
1176年没
死亡地
ロシア連邦(ヴラジーミル州 / ウラジーミル)
出生地
ロシア連邦(スーズダリ)
出典
世界地図
ロシア連邦(ヴラジーミル州)

伝記

ミハイル1世は、ユーリー・ドルゴルーキーの子で、ミハルコ・ユーリエヴィチとも呼ばれる、ウラジーミル大公である。1145年から1153年のあいだに生まれたとされ、1151年にスーズダリで生まれたともいう。ユーリーの二度目の妻の長男にあたる。ミハイルは、異母兄アンドレイ・ボゴリュブスキーが母を嫌っていたため、1162年ごろ、スーズダリの地から追われた。1162年から1169年まで、チェルニゴフに近い小さな町オストルに住んだ。歴史家タチーシチェフは、行き先はゴロジェッツだったと推測している。

1168年に、キエフ大公ムスチスラフの、ポロヴェツ人に対する遠征に加わった。同じ年、黒帽子族の部隊とともにノヴゴロドに派遣されたが、モノマフ家の公たちに捕らえられた。解放されたのは翌年で、このとき兄アンドレイから、ポロシエに築かれていた入植地トルチェスクを受け取った。1170年には、ポロヴェツ人からペレヤスラヴリを守った。

1171年(1172年ともいう)、弟グレプが死ぬと、アンドレイはミハイルをキエフの統治者に任じた。ミハイルは大公の座に就くことをはじめは断り、弟のフセヴォロドをキエフに送り、自分はトルチェスクにとどまった。ところが、キエフ大公位を求めるロスチスラヴィチ家の公に包囲され、和睦して、拠点をペレヤスラヴリに移すことを認められた。翌年、アンドレイが南ルーシに攻め入ると、ミハイルは和睦を破り、兄に忠誠を誓った。1173年には、アンドレイとともに数か月にわたり、キエフ大公位をめぐる争いに加わった。

1174年に兄アンドレイが死ぬと、ミハイルはウラジーミル大公となった。しかしスーズダリとロストフのボヤーレたちとの折り合いが悪く、チェルニゴフへ去った。ウラジーミルの人々は、ほどなくミハイルを呼び戻した。アンドレイの甥、つまりミハイルの甥にあたるヤロポルク・ロスチスラヴィチと戦うためである。ミハイルはこの甥を破り、1175年に再びウラジーミルの公位を得た。一年ほど治めたのち、1176年6月20日に死んだ。跡は弟のフセヴォロド3世が継いだ。高い徳を備えた人物として、記憶されたという。

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