HISTORICAL PERSON · 1925年没

孫文

中華民国の政治家・革命家・思想家・医師。初代臨時大総統で中国国民党総理。「中国革命の父」「国父」と呼ばれ、100新台湾ドル紙幣に肖像が描かれている。

生涯
1925年没
死亡地
中華人民共和国(北京市 / 北京協和医院)
出生地
中華人民共和国(翠亨村)
出典
世界地図
中華人民共和国(北京市)

伝記

孫文は、1866年11月12日に、清国広東省香山県翠亨村、現在の中山市の農民の家に生まれた、中華民国の政治家、革命家、思想家、医師である。初代の中華民国臨時大総統で、中国国民党総理を務め、「中国革命の父」「国父」と呼ばれる。父は孫達成、母は楊氏で、5番目の子として生まれた。兄と姉が2人ずついたが、兄と姉の1人ずつは幼くして亡くなっている。12歳のときに、地域で信仰されていた洪聖大王の木像を、地元の子供たちと壊し、兄の監督下に置かれた。ハワイ王国に出稼ぎに渡っていた兄の支援を得て、1878年に母とともにホノルルに移住し、イオラニ・スクールを卒業し、プナホウ・スクールでも学んだ。西洋思想に目覚めたが、兄や母はキリスト教への傾倒を心配し、1883年に中国に戻した。

帰国後、香港の香港西医書院で医学を学びながら革命思想を抱くようになり、マカオで医師として開業した。清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州で武装蜂起を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介で頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から活動費と生活費の援助を受けた。日本では「中山樵」と名乗り、これが中国語圏で一般的な「孫中山」の名の由来になった。1900年に恵州で再び挙兵したが失敗し、1902年には、中国に妻がいたが、日本人の大月薫と結婚した。アメリカとイギリスを渡った際に、清国公使館に一時拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表して、世界的に有名な革命家となった。シンガポールのゴム王のような支援者を得て、革命資金を集めるために世界を巡った。

1905年に東京で興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成し、ここで留学中の蔣介石と出会った。1911年10月10日に武昌蜂起が起き、各省が呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。12月25日に上海に帰着すると、革命派は熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立した。1913年3月の国会議員選挙で、中国同盟会を発展させた国民党が870議席のうち401議席を獲得したが、清朝の実力者袁世凱は、宋教仁を暗殺して、国民党の弾圧を始めた。これに対し、同年7月、第二革命が始まった。1914年に孫文は中華革命党を組織し、1915年に袁世凱が帝政を復活させようとすると、反袁の第三革命が展開された。

1917年に広州で広東軍政府を樹立したが、第一次護法運動は失敗した。同じ客家の宋嘉澍の次女、宋慶齢と結婚した。1919年の五・四運動以降、中国の青年に共産主義思想への共感が広がり、孫文も「連ソ容共・労農扶助」へと方針を転換した。ボロディンを国民党最高顧問に迎え、1923年1月26日にソビエト連邦代表ヨッフェと共同宣言を出し、1924年1月20日に中国共産党との第一次国共合作が成立した。黄埔軍官学校も設立された。1924年10月に北上宣言を行い、同11月には日本の神戸で「大アジア主義講演」を行い、欧米の帝国主義に対する東洋の王道を説き、日中の友好を訴えた。肝臓癌を患い、1925年3月12日に療養先の北京で客死し、北伐の後に南京に葬られた。その墓は中山陵と呼ばれる。

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