伝記
カロヤン・アセンは、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1197年から1207年)である。帝国の建国者であるペタル4世と、イヴァン・アセン1世の弟で、1168年か1169年に、タルノヴォ近郊の地方領主の末子として生まれた。1187年にブルガリアの独立が承認されると、東ローマ帝国への人質としてコンスタンティノープルに送られたが、1189年ごろに脱走して帰国した。ペタル4世とアセン1世が、宮廷の政争によって暗殺されると、敵対者を破って皇帝に即位した。
カロヤンは、兄たちの反東ローマ政策を引き継ぎ、アセン1世を暗殺したのち東ローマに亡命してプロヴディフを治めていた従兄弟と同盟した。また、ブルガリアから離反してストルミツァで独立したドブロミル・フリスとも手を結び、トラキアのコンスタンティアを占領した。1201年に、北ブルガリア最後の東ローマ領であるヴァルナを制圧し、翌1202年には、マケドニアの大部分をブルガリアの影響下に置いた。1202年にハンガリー王イムレが攻め込み、ベオグラード、ブラニチェヴォ、ニシュを占領したが、1203年にブルガリアはベオグラードとブラニチェヴォを取り戻し、教皇インノケンティウス3世が争いを仲裁するまで対立は続いた。これと並行して、1199年ごろから、インノケンティウス3世は、ローマ教会とブルガリア正教会の合同を説く書簡を出していた。カロヤンは皇帝の称号を求め、1202年から交渉し、1204年の秋に、枢機卿レオがタルノヴォを訪れ、大主教ヴァシリーに首座大司教の称号が授けられた。カロヤンには、王冠と王笏、旗が与えられ、「ブルガリアとワラキアの王」として戴冠した。カロヤンは、皇帝の称号が認められたとみなし、「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した。
1204年に、第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建てると、カロヤンは、十字軍に反東ローマ同盟の結成を呼び掛けたが受け入れられなかった。1205年、ラテン帝国に反乱を起こしていたトラキアの東ローマ貴族が、コンスタンティノープルを奪い返せば皇帝に推すという条件で、カロヤンに援助を求めた。ブルガリアは、クマン人とルーム・セルジューク朝の助けで、フィリッポポリスとアドリアノープルを占領し、1205年4月14日、アドリアノープル近郊の戦いで、ラテン帝国軍に大勝した。ラテン皇帝ボードゥアン1世とブロワ伯ルイ1世は捕らえられ、タルノヴォで処刑された。東ローマ貴族たちは、初めは勝利を喜んだが、やがてカロヤンに反逆した。カロヤンは、彼らの住む東トラキアで破壊と略奪を行い、捕虜を移住させたため、かつて「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世にならって、「ローマ人殺し」の渾名で呼ばれた。
1206年1月31日、ルシオンの戦いで、ラテン帝国軍を再び破った。カロヤンは2度目のアドリアノープル包囲を行うが、クマン人騎兵が撤退し、新しいラテン皇帝アンリが抵抗したため、攻略できなかった。1207年に、ニカイア帝国のテオドロス1世と反ラテン同盟を結び、9月4日にロドピ地方でテッサロニキ王国の君主ボニファチオを敗死させた。テッサロニキを包囲したが、包囲中に、クマン人の司令官マナスタルの裏切りで暗殺された。遺体はタルノヴォに葬られ、1972年に、聖40人殉教者教会の柱廊で、金糸を織り込んだ衣服を着たカロヤンと思われる遺骨が見つかった。妃アンナはクマン人の指導者層の出で、カロヤンの死後、帝位簒奪者のボリルと再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯) (1207年没)
- Fernando Afonso of Portugal (1207年)
- オットー1世 (ゲルデルン伯) (1207年)
- シモン2世 (ロレーヌ公) (1207年没)
- エーリング・ステインベグ (1207年)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルギオス・マニアケス (1043年没)
- ウラジーミル・ブルリューク (1917年没)
- アレクサンドロス4世 (紀元前309年没)
- エウリピデス (紀元前400年代没)
- カリステネス (紀元前326)