伝記
九条良経は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿で、歌人でもあった人物である。歌人としては藤原良経と呼ばれることが多い。関白九条兼実の次男で、九条家の2代当主にあたる。後京極殿と号し、後京極摂政、中御門摂政とも呼ばれた。母は藤原季行の娘である。
1179年(治承3年)に元服して従五位上となった。1185年に従三位となり、1188年に同母兄の良通が早世したため、兼実の嫡男となった。1189年に権中納言、同じ年に権大納言と昇進し、1195年に内大臣となった。1191年には、源頼朝の姪にあたる一条能保の娘と結婚している。しかし1196年(建久7年)、兼実に反対する丹後局や源通親らの反撃を受けて、父とともに朝廷から追放され、蟄居を余儀なくされた(建久七年の政変)。
1199年(正治元年)に左大臣として政界に復帰し、のちに内覧となった。1200年には、妻が産褥のために亡くなった。叔父の松殿基房のすすめで、1201年に基房の娘の寿子と結婚した。1202年12月に土御門天皇の摂政となり、1204年には従一位、太政大臣となった。しかし1206年(元久3年)3月7日の深夜に、急に亡くなった。38歳であった。寝所で殺されたという説もあり、菅原為長が疑われ、鎌倉幕府との不和が理由とも考えられたが、事件の真相は明らかにされなかった。
良経は、和歌や書道、漢詩にすぐれた教養人であった。書道は天才的で、屈曲が激しく、線に力強さを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。叔父の慈円を後援者・協力者として、1190年ごろから歌壇での活動が目立つようになり、『花月百首』を主催した。1193年ごろには『六百番歌合』も主催した。これらの活動は御子左家との強い結びつきのもとで行われたが、六条家の歌人との交流もあった。良経の歌壇は、のちに『新古今和歌集』に結実する新しい和歌の風を育てた土壌として大きな役割を果たし、のちに後鳥羽院の歌壇へと移ると、良経を含む御子左家の一派はその中心に位置した。1201年に和歌所が設けられると、寄人の筆頭となり、『新古今和歌集』の撰集にかかわり、その仮名序を書いた。自撰の家集『秋篠月清集』は六家集のひとつとなっている。『後京極殿御自歌合』も作風を知る資料となる。日記に『殿記』、著作に『大間成文抄』がある。小倉百人一首では、「後京極摂政前太政大臣」として知られ、91番の「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ」が選ばれている。娘の立子は順徳天皇の中宮で、仲恭天皇の母となり、息子には九条道家、九条教家、九条基家らがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・バフティヤール・ハルジー (1206年没)
- シハーブッディーン・ムハンマド (1206年没)
- John X of Constantinople (1206年)
- アデル・ド・シャンパーニュ (1206年没)
- ジャザリー (1206年没)
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