HISTORICAL PERSON · 1206年没

ムハンマド・バフティヤール・ハルジー

インド・マムルーク朝の将軍としてわずかな騎兵でベンガルを征服し、ナーランダなどの仏教僧院を破壊したが、チベット遠征に失敗した末に部下に暗殺された。

生涯
1206年没
死亡地
インド(西ベンガル州 / Bangarh)
出生地
アフガニスタン・イスラム共和国(ガルムシール)
出典
世界地図
インド(西ベンガル州)

伝記

ムハンマド・バフティヤール・ハルジーは、ゴール朝の将軍で、クトゥブッディーン・アイバクに仕え、ムスリムとして初めてベンガルを征服した人物である。ベンガルのハルジー朝(1203年から1227年)の創始者でもある。彼の遠征により、インド東部の仏教は深刻な打撃を受け、以後5世紀にわたり、ベンガルはイスラム教を信じる君主に支配された。

ハルジー族は、アフガニスタン南部に長くいたトルコ系の部族で、ムハンマド・バフティヤールは、その南部のガルムシールの出身であった。伝説では、将来、18騎を率いてベンガルを征服するという予言を受けたという。生まれたときは平民であったとされ、膝より下まで伸びる長い腕と低い背をもち、顔つきもよくなかったという。しかし、叔父は第2次タラインの戦いでプリトヴィラージ3世と戦った人物で、まったくの無名の家ではなかったともいわれる。ゴールの役人となったのち、1193年ごろにインドへ向かい、職を求めてガズナとデリーを訪れた。デリーでは、アイバクの軍に志願したが、容貌のために断られた。そこでさらに東へ向かい、バダーユーンで職を得て、小部隊の指揮を任された。のちにアワドへ行き、フサームッディーンに見いだされて、現在のミルザープル県にあたる土地を与えられた。ここで力をたくわえ、東方の防備の薄い地域を荒らしまわるようになり、ビハールのマネールでも多くの戦利品を得た。この成功で名が知られ、多くのハルジー族が彼に仕えた。アイバクも彼を称えた。

1200年にビハールを征服したことが、人生の転機となった。この軍事行動がデリーの宮廷での影響力につながり、同じ年にベンガルへ軍を進めた。ナヴァドヴィーパの町を攻めたとき、彼はあまりの速さで突き進み、ついてこられた騎兵はわずか18騎であった。1203年、セーナ朝の君主ラクシュマナ・セーナの首都ナヴァドヴィーパを奪い、ラクシュマナ・セーナは東ベンガルへ逃れた。続いて主要都市ガウルを征服し、ベンガルの大部分に入り込んだ。この侵攻で、ナーランダ僧院やオーダンティプラ、ヴィクラマシーラの仏教の大学が深刻な被害を受けた。ミンハージュ・サラージュ・ジューズジャーニーの『ナースィル史話』は、彼が「ビハール」という町の仏教寺院を壊したと記すが、これはおそらく精舎のことである。ただし、ナーランダの破壊が彼によるものかどうかには、異論もある。仏教側の文献では、彼が百万冊の蔵書をもつナーランダの7階建ての図書館を焼き、その火は3か月燃え続けたという。1204年から1206年にかけては、ゴール朝のムイッズッディーン・ムハンマドの名で貨幣を発行した。

1206年、彼はデーヴコートを発ってチベットへ向かい、東の国境を守るため、アリー・マルダーン・ハルジーをゴーラガートに残した。しかし、アッサム王プリトゥに敗れて大打撃を受け、さらにチベット軍にも大敗して、撤退を余儀なくされた。デーヴコートに戻ったとき、生き残った兵は100人ほどであった。まもなく彼は病に倒れ、アリー・マルダーンに暗殺された。後継には同じハルジー族のムハンマド・シーラーン・ハルジーが任じられたが、アリー・マルダーンはデリーへ逃れてアイバクを動かし、ベンガルへの遠征を行わせ、シーラーンを追い落とした。アリー・マルダーンは1212年に暗殺され、その後はギヤースッディーン・イワーズ・ハルジーが独立を宣言した。バングラデシュの詩人アル・マフムードは、1990年代前半に詩集『バフティヤールの馬たち』を出し、彼をベンガルを征服したムスリムの英雄として称えた。

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