伝記
藤原俊成は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家で歌人である。「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流で、権中納言藤原俊忠の子にあたる。はじめ勧修寺流の藤原顕頼の猶子となって顕広と名乗ったが、のちに御子左家に戻り、俊成と改めた。法名は釈阿である。10歳で父と死別し、義兄で鳥羽院近臣の顕頼の後見を得て、国司を歴任したが、位階は18年間、従五位下のまま停滞した。1130年代に、岳父藤原為忠が催す二度の「為忠家百首」に歌を出して、本格的に詠作を始め、1138年には藤原基俊に師事した。1140年から41年には、不遇への悲嘆や出家への迷いを「述懐百首」に詠んだ。「久安百首」の詠進や部類を命じられ、崇徳天皇の知遇を得る一方、美福門院の乳母子である美福門院加賀と再婚し、1145年以降、美福門院の御給で昇叙されるようになった。
1156年の保元の乱で、崇徳院の歌壇は崩壊した。1159年、二条天皇が内裏歌会を再開したが、当時の「歌の家」であった六条藤家の藤原清輔を重用した。1167年、俊成は念願の公卿となり、翌年には御子左流に復した。その後、「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの判者を務めたが、1176年9月に咳の病が悪化して出家した。
1177年に清輔が没し、1178年に九条兼実と初めて会談した俊成は、九条家歌壇に師として迎えられた。1183年7月、平家一門が都落ちしたあと、平忠度は従者6人と引き返して俊成の邸を訪れ、百首余りの歌を収めた巻物を託して去った。忠度は翌年、一ノ谷の戦いで戦死した。俊成は、勅勘の人であった忠度の歌を、「詠み人知らず」として一首だけ『千載集』に載せた(『平家物語』)。1183年に後白河院の院宣を受け、1188年に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進して、名実ともに歌壇の第一人者となった。1189年から90年には、5つの社に百首歌を奉納し(五社百首)、1193年か94年ごろの「六百番歌合」では、六条藤家と御子左家の歌人たちが威信をかけて争い、俊成が判を加えた。
1200年以降は、後鳥羽院の命により「正治初度百首」や「千五百番歌合」の百首などを詠進した。1201年に和歌所の寄人となり、1203年には、後鳥羽院から九十賀の宴を賜り、鳩杖や法服などを贈られた。1204年の秋に「祇園社百首」を、11月10日には「春日社歌合」を詠み、最後まで詠作を続けて、11月30日、91歳で没した。
家集に『長秋詠藻』『俊成家集』などがあり、『長秋詠藻』は六家集の一つである。勅撰集には414首が採られ、その数は紀貫之、子の定家に次ぐ3位である。歌学書に『古来風躰抄』などがある。俊恵に自作でどの歌が優れているかと問われると、「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」を挙げたという。歌風は、格調高く、深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景を歌に映す本歌取や本説取の技法を確立した。判詞で用いた「幽玄」や「艶」は、中世を代表する美的理念となった。門下からは、定家をはじめ、寂蓮、俊成卿女、藤原家隆、後鳥羽院、九条良経、式子内親王などが出て、新古今歌風の形成に大きな役割を果たした。
同じ年に亡くなった人物
- ルクヌッディーン・スライマーン・シャー (1204年没)
- アルペトラギウス (1204年没)
- グットルム・シグルツソン (1204年没)
- ホーコン3世 (ノルウェー王) (1204年没)
- アリエノール・ダキテーヌ (1204年没)