伝記
陽成天皇は、日本の第57代天皇である。在位は貞観18年(876年)11月29日から元慶8年(884年)2月4日まで。諱は貞明といい、清和天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原長良の娘で皇太后の藤原高子(二条后)である。生後3か月足らずで皇太子に立てられ、貞観18年11月、9歳のときに父から譲位を受けた。父に続く幼年の天皇であり、母方の伯父の藤原基経が摂政に就いた。
在位の初めは、両親と基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪くなったらしい。元慶7年(883年)8月から、基経は出仕を拒むようになった。基経が陽成の元服に際して娘を入内させようとしたのを、高子が拒んだためではないかという説がある。これに対しては、清和の譲位の詔は基経の摂政を陽成の親政開始までとしていたので、元服を機に摂政を辞すこと自体は不自然ではないという反論もある。一連の確執の本質は、摂政の基経と国母の高子という兄妹の不仲と権力争いにあったとする見方もある。
元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴り殺される事件が起きた。経緯も犯人も記録に残っていないが、陽成が関与したとの風聞があった。故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか、少なくとも何らかの関わりがあったというのが、大方の歴史家の見方である。幼いころから奇矯な振る舞いがあったともいわれる。陽成は翌年2月に退位して太上天皇となった。公には病による自発的な譲位とされたが、実際には基経から迫られてのことだったと考えられている。ただし、この殴殺事件には疑問点も多く、母子を排して光孝天皇を立てた基経の罪を消すための作為だともいわれる。事件の3日後に、それまで出仕していなかった基経が宮中に乗り込み、陽成の側近の下級官人の粛清を図ったことに注目する指摘もある。退位したときの年齢は17歳(満15歳)であった。
陽成には同母弟の貞保親王も、基経の外孫にあたる異母弟の貞辰親王もいたが、いずれとも決めがたかったのか、皇位は長老格の皇族に打診された。恒貞親王は拒絶し、源融は自薦したものの臣下であると反対され、結局、仁明天皇の皇子である大叔父の時康親王が55歳で即位した。光孝天皇である。光孝は一代限りのつもりで、すべての皇子女を臣籍に降下させた。仁和3年(887年)に光孝が病に陥ると、基経と光孝は相談のうえ、光孝の子の源定省を皇籍に復帰させて立太子させ、同日に光孝が崩じて定省親王が践祚した。宇多天皇である。この異例の継承によって皇統は光孝、宇多、醍醐の系統に移り、文徳、清和、陽成の系統に戻ることはなかった。陽成は後に、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったという逸話が『大鏡』にある。
退位後の陽成は、幾度か歌合を催したことから歌才があったようで、自作として伝わるのは「つくばねの峰よりおつるみなの川恋ぞつもりて淵となりける」の一首のみである。この歌は『後撰和歌集』に入り、小倉百人一首の13番にも採られた。妃の一人で宇多の妹にあたる綏子内親王に宛てた歌とされる。上皇でいた期間は65年に及び、歴代1位である。醍醐天皇よりも長生きし、朱雀天皇や村上天皇と光孝の系統による皇位継承を見届けて、949年に没した。陵は京都市左京区の神楽岡東陵に治定されている。
同じ年に亡くなった人物
- Miroslav of Croatia (949年没)
- 定宗 (高麗王) (949年没)
- ムスタクフィー (949年没)
- 雲門文偃 (949年没)
- ジョルト (ハンガリー大公) (949年)