伝記
キャサリン・マンスフィールドは、本名キャスリーン・マンスフィールド・ボーシャンといい、1888年10月14日に、ニュージーランドのウェリントンの裕福な家庭に生まれた作家である。「意識の流れ」を重視した作家の一人とされ、ニュージーランド生まれとして最も有名な作家だが、主にイギリスで作品を発表した。父方の祖父は国会議員、父は銀行家、母も良い家柄の出だった。幼年期を過ごした、現在はウェリントン郊外のカロリは田舎で、のちに、いつも何かを書いていた、戯言めいたことでも、書いている方がずっとよかった、そうしなければ何もなかったから、と語っている。9歳のときに、初めて自分の文章を出版している。
1903年にロンドンのクイーンズ・カレッジに入学し、1906年に郷里の家に帰って音楽を志した。才能あるチェリストでもあったが、プロへの道は父の反対で断念した。田舎の偏狭な暮らしに倦んだ彼女は、友人のとりなしで、2年後にロンドンに戻ることができ、それ以降、二度と故国の土を踏まなかった。1906年の帰郷の際には恋愛を経験し、その後も音楽家と恋に落ちて子を宿したが、流産した。1909年にジョージ・ブラウンと結婚したものの、数日で破局した。オペラのエキストラとして各地を巡り、1910年にロンドンに帰ってきたときには、性病に感染しており、この病は以後、彼女の身体を苛んだ。
父からの経済的援助を受けながら短編を書き、ロンドンの文化サークルに加わって、D・H・ローレンスやヴァージニア・ウルフと出会った。いくつかの出版社に興味をもたれ、1911年に最初の短編集『ドイツの下宿にて』を出版し、このときマンスフィールドの筆名を使った。売れなかったことに落胆した彼女は、間借り人だった社会主義者で文芸批評家のジョン・ミドルトン・マリーと同棲するようになった。1918年の第二短編集『前奏曲』までは、鬱状態に沈み、書き続けたものの、ほとんど出版しなかった。1915年には、第一次世界大戦が唯一の弟を奪い、その死は彼女に大きな影響を与え、以後の作風にも変化が見られた。1917年に結核を発病し、健康はさらに損なわれた。1918年に、離婚した後に同棲していたマリーと結婚した。ヨーロッパの温泉保養地を転々とする闘病生活の中で書き始めた作品が、彼女の名を高からしめた。
1920年の短編集『幸福』は、夫の不貞に直面した女性を描いた表題作が、評論家の絶賛を浴びた。続く1922年の『園遊会』も、同様に高い評価を得て、収められた「ミス・ブリル」によって、モダニズム時代の極めて優れた作家と見なされた。ウルフは、早くから彼女の作品の影響を認め、「私に嫉妬心を抱かせる唯一の作品」とさえ言っていた。晩年は、フォンテーヌブローの「人の調和的発展研究所」で、ひとりぼっちで執筆を続け、題材は、きまって自分のルーツと幼い時代だった。1923年1月9日、34歳の誕生日の後ほどなく、喀血を起こして亡くなり、フランスのアヴォンの墓地に埋葬された。最期の言葉は、「私は雨が好き。この顔で雨を感じたい」であった。生前に出版されなかった散文と詩の多くは、夫のマリーが編集して出版した。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・トレルチ (1923年没)
- ヤロスラフ・ハシェク (1923年没)
- ヨハネス・ファン・デル・ワールス (1923年没)
- Alexander Neverov (1923年没)
- トーマス・フレデリック・チーズマン (1923年没)
同じ地域に関係する人物
- カロリーヌ・ジベール (1879年没)
- Herve Boussard (2013年没)
- フランソワ=オーギュスト・ビアール (1882年没)
- ヘルマン・ゴルトシュミット (1866年没)
- Henri Herouin (1926年没)