伝記
アニェス・ド・メラニーは、アニェス・ダンデクスとも呼ばれ、フランス王フィリップ2世の3番目の王妃となった人物である。1180年ごろに生まれた。父はメラーン公ベルトルト4世、母はヴェッティン家のアニェス・フォン・ロホリッツである。姉のヘートヴィヒ(ヤドヴィガ)は、シレジアの守護聖人として知られ、1267年に列聖された。もう一人の姉ゲルトルートは、ハンガリー王アンドラーシュ2世の妃となり、聖エリーザベトの母となった。
フィリップ2世は、1190年に最初の王妃イザベル・ド・エノーを亡くしたあと、1193年にデンマーク王女インゲボルグと再婚した。ところが、結婚初夜の翌日に彼女を嫌うようになり、その理由は分かっていない。偽造した家系図で自分とインゲボルグの血縁を主張し、王の意向に従う司教たちの集会で、結婚を無効にさせた。そして1196年6月1日に、コンピエーニュでアニェスと結婚した。アニェスは、フィリップ2世が心を打たれるほどの、並はずれた美女であったとされる。
しかしインゲボルグは離婚を受け入れず、教皇ケレスティヌス3世に訴えた。教皇もインゲボルグの主張を認め、結婚の無効を違法とした。アニェスとの結婚は無効とされたが、フィリップ2世はこれを無視し、アニェスを王妃にし続けた。教皇ケレスティヌス3世の没後、後継のインノケンティウス3世は、司教たちの決定を取り消し、インゲボルグとの結婚を尊重するよう命じた。王に反応がなかったため、1200年1月13日にフランス王国全体に聖務停止を宣告した。フランス人は、典礼や秘跡を行うことも、死者をキリスト教式に葬ることもできなくなった。教皇は、民衆が王に抗議することをねらっていた。フィリップは屈するふりをして、アニェスをポワシーの修道院へ送り、インゲボルグを宮廷へ戻したが、夫婦としての生活は再開しなかった。のちに、イングランド王ジョンとの対抗上、教皇の支持を求める必要から、1201年に表面上はアニェスと別れた。アニェスは、自分に飽きた王に捨てられたと思い込み、悲しみのあまり病にかかった。
1201年7月20日、アニェスは、王との3人目の子の出産のさなかに、ポワシーで若くして亡くなった(18日とする説もある)。生まれた子も、まもなく世を去った。アニェスを愛していたフィリップ2世は、たいへん悲しんだとされる。彼女の死は、王と教会の対立が解けるきっかけにもなった。アニェスとのあいだに生まれたのは、1198年生まれの娘マリーと、息子のフィリップ・ユルプルらである。この二人は、教皇庁によって嫡子と認められた。マリーは、ナミュール伯フィリップ1世、ついでブラバント公アンリ1世と結婚し、フィリップ・ユルプルはクレルモン伯、ブローニュ伯となった。遺体は、現在のイヴリーヌ県にあるサン・コランタン修道院に葬られた。アニェスの死後、フィリップ2世はインゲボルグを監禁していたが、教皇の求めや、インゲボルグの兄ヴァルデマー2世との和解のため、1213年に彼女を呼び戻して、ふたたび王妃として遇した。アニェスは、19世紀にフランソワ・ポンサールの悲劇『アニェス・ド・メラニー』の主人公となった。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ1世 (ニュルンベルク城伯) (1201年)
- コンスタンス・ド・ブルターニュ (1201年没)
- Roger of Howden (1201年)
- レオニヌス (1201年)
- 式子内親王 (1201年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イル (1761年没)
- マリー・テレーズ・ドートリッシュ (1683年没)
- ジュール・アルドゥアン=マンサール (1708年没)
- クリスティーヌ・ド・ピザン (1430年没)
- ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート (1712年没)