伝記
クリスティーヌ・ド・ピザンは、1364年にヴェネツィアで生まれ、パリの宮廷で活動した詩人・文学者である。ヨーロッパ初の女性職業作家、フランス文学で最初の女性職業文筆家とされる。名は生地ではクリスティーナと呼ばれたが、4歳になった1368年、医師で占星術師としてフランス王シャルル5世の宮廷に仕えていた父トンマーゾに呼び寄せられて渡仏し、一家はド・ピザンを名乗るようになった。
当時の女性としては珍しく、幼い頃から父に教育を受けた。シャルル5世の宮廷にはルーヴルの塔内に置かれた図書館があり、アリストテレスの著作をはじめ神学、歴史学、政治学、天文学、古典文学などの仏訳書が揃っていた。ペトラルカら同時代の文献の仏訳も収められ、当時のヨーロッパで最も充実した施設だったとされる。彼女はこれらの書物に触れ、フランス語で膨大な知識を吸収した。1380年に国王秘書官エティエンヌ・ド・カステルと結婚し、3人の子をもうけたが、父と夫が相次いで世を去り、二十代半ばで子ども、母、姪を養う身となった。
生計を立てるため、手稿の清書者として働き、当時流行していた恋愛詩を書き始めた。女性が著述を公に発表することが珍しい時代であり、作品は注目を集めて執筆依頼が集まった。1394年には諸侯の夫人たちの求めに応じて『百のバラード』の執筆に着手し、これは当時好評を得た。再婚せずに文筆の道を選び、主にフランスの貴族に向けて作品や詞華集を書いた。写字生や挿絵画家に指示を出し、自らも写字を行い、有力な庇護者へ作品集を贈って収入と名声を得ようとしたという。
1401年から1402年にかけての文芸論争では、ジャン・ド・モントルイユが『薔薇物語』を称賛した公開状に反論し、その続編は女性蔑視であって賛辞に値しないと主張した。続編は聖職者ジャン・ド・マンによるもので、自由恋愛と女性への蔑視的な表現が含まれていた。この論争によって、彼女の名はパリの文芸サロンに広まった。1402年の『薔薇のことば』などで女性擁護の立場を鮮明にした。
ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公は『運命の変転の書』に感銘を受け、兄シャルル5世の伝記を依頼した。1404年の『賢明王シャルル5世の業績の数々と善行をめぐる書』は、王に関する同時代文献として現存する唯一のものとされ、中世研究の重要な史料である。1405年の『女の都』では、女性の理性や公正さが治めるユートピアを描いた。同年の『三徳の書』は婦人向けの指南書で、比較的保守的な内容だったが、男性にも人気を博し複数の言語に訳された。1410年には軍の委嘱による『戦争と軍事技術の書』を著し、軍の教本として使われた。
やがて詩作から散文に傾き、女性の地位向上に力を注ぎ、平和の必要性を訴えて王政改革の議論にも加わった。百年戦争や内乱の混乱のなか、1418年にパリを離れ、ポワシーの修道院に身を寄せた。1429年に最後の詩『ジャンヌ・ダルク頌』を刊行し、その翌年の1430年に亡くなったとされる。なお、当時のフランスは、アルマニャック派とブルゴーニュ派の対立や教会大分裂といった不安定な情勢にあり、彼女が政治的な論考を多く残した背景には、ヴァロワ家の宮廷に身近だったことがあるとされる。『ジャンヌ・ダルク頌』はジャンヌ・ダルクを題材とする諸作品の先駆けで、ジャンヌの存命中に刊行された唯一の書物とされる。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・ド・サン=ポル (1430年没)
- クリストフォロ・ブオンデルモンティ (1430年)
- 対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代) (1430年)
- アラン・シャルティエ (1430年)
- レングヴェニス・アルギルダイティス (1430年代没)
同じ地域に関係する人物
- Etienne-Jean Delecluze (1863年没)
- マリー=ジョゼフ・ド・サクス (1767年没)
- ジョルジュ・ウィルソン (2010年没)
- ジョルジュ・ルー (1929年没)
- マリー・ド・フランス (1344-1404) (1404年没)