伝記
マリー・テレーズ・ドートリッシュは、フランス国王ルイ14世の王妃である。スペイン名はマリア・テレサといい、1638年9月10日にマドリード近郊のエル・エスコリアル修道院で生まれた。父はスペイン国王フェリペ4世、母はフランス国王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘イサベル・デ・ボルボンである。この二重の血筋のために、将来の結婚はフランスとスペインの関係を左右する重大な問題となった。
母のイサベルは1644年に早産に伴う合併症で亡くなり、フェリペ4世は1647年に自らの姪マリアナと再婚した。兄バルタサール・カルロスは1646年に天然痘で没し、一時は父の最有力の嫡出の後継者とされたが、1657年に弟フェリペ・プロスペロが生まれ、さらに彼の死後にカルロス(後のカルロス2世)が生まれたため、王位継承の可能性は遠のいた。同時代の記録は、色白で青い目と金髪をした娘だったと伝える。1659年、ルイ14世の使者としてマドリードを訪れたグラモン公は、その美しさを国王に報告したが、幅2メートルもあるパニエ(腰を広げる枠)のせいで体つきは判断できないと皮肉も添えたという。
1659年、宰相ジュール・マザランにより王妃に選ばれた。ピレネー条約で取り決められた結婚であり、1660年6月9日にサン=ジャン=ド=リュズで、即位から17年のルイ14世と式を挙げた。ルイ14世の父ルイ13世はイサベルの兄、母アンヌ・ドートリッシュはフェリペ4世の姉にあたり、二人は父方と母方の双方で従兄妹の関係にあった。条約では、持参金として賠償金を支払う代わりに、マリー・テレーズと子供たちはスペインの王位継承権を放棄すると定められた。ところがスペイン王家は取り決めの持参金を払えず、のちに王位継承をめぐる国際戦争、すなわちネーデルラント継承戦争やスペイン継承戦争に至る。
宮廷でのマリー・テレーズは、フランス語をうまく話せず、スペイン訛りが周囲を苛立たせたとされる。ハプスブルク家に特有の小さく短い唇も、表情に乏しい印象を強めたという。政治にも文学にも関心を示さず、義母アンヌとともに祈り、トランプ遊びをして過ごした。アンヌは同じハプスブルク家出身の伯母でもあり、スペイン語での会話を楽しむ良好な間柄だったが、1666年に没した。結婚生活は良好に見えたが、猜疑心のない性格がかえって夫を遠ざけ、ルイ14世は多くの公妾や愛人を持ち、王妃は最後に知らされるのが常だったという。控えめな寵姫ラ・ヴァリエールのことは「野にひそやかに咲くスミレ」と好意的に見て、修道院に入った後も何度か見舞った。一方、自分こそ王妃のように振る舞うモンテスパン侯爵夫人は嫌悪し、後には、信心深いマントノン侯爵夫人から手厚く遇されたと語った。
国王との間には3男3女が生まれたが、長男のグラン・ドーファン以外は幼くして亡くなった。1683年7月30日、44歳で死去した。死因は腋の大きな腫瘍とされる。長く愛人に心を移していたルイ14世も、王妃の最期には涙を流して別れを告げたといわれる。後に孫のアンジュー公フィリップは、持参金の未払いを理由に祖母の継承権放棄は無効だと主張し、フェリペ5世としてスペイン王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヘートヴィヒ・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク (1683年没)
- ダニエル・シュルツ (1683年)
- ウィレム・ファン・アールスト (1683年没)
- ルイ・ド・ブルボン (ヴェルマンドワ伯) (1683年没)
- Marie-Catherine de Villedieu (1683年)
同じ地域に関係する人物
- アンリエット・ド・フランス (1752年没)
- Etienne-Jean Delecluze (1863年没)
- マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ (1681年没)
- アニェス・ド・メラニー (1201年没)
- シャルロット・ド・ラ・モート=ウーダンクール (1744年没)