HISTORICAL PERSON · 紀元前133年没

アッタロス3世

アッタロス朝ペルガモン最後の王。統治より医学・植物学を好み、後継の男子がなかったため遺言でペルガモン王国をローマに遺贈した。

生涯
紀元前133年没
死亡地
トルコ共和国(イズミル県 / ペルガモン)
出生地
トルコ共和国(ペルガモン)
出典
世界地図
トルコ共和国(イズミル県)

伝記

アッタロス3世は、アッタロス朝ペルガモン王国の最後の王である。紀元前170年頃、一説には紀元前171年に生まれ、紀元前133年に没した。父はエウメネス2世、母はストラトニケで、先王アッタロス2世の甥にあたる。叔父には男子がなく、その生前から王権に関わらされたとされ、紀元前139年または138年に王位を継いだ。ベレニケと結婚して娘をもうけ、この娘はガラティアの王デイオタロスの妻となった。「ピロメトル・エウエルゲテス」という称号は、ギリシア語で母を愛する者、保護者を意味し、母ストラトニケとの密接な関係からこう呼ばれたという。

この王の人柄を伝える史料は少なく、本当の性格を見極めるのは難しいとされる。一方で、統治にはほとんど関心を示さず、医学や植物学、園芸などの趣味に没頭したと語られる。その治世には、先王たちとは異なる動きもあった。即位の当初から先代以来の顧問官(ピロイ)たちを排除させ、王を神として祀る崇拝を設けたとされる。

治世でもっとも重要なのは遺言である。後継ぎとなる男子がなかった王は、自らの意志で王国を共和政ローマの民に遺贈した。そのため、この遺言はローマのアジア属州成立への大きな一歩となり、ローマの帝国主義を法的に正当化するものになったと評される。遺言の動機については、いくつかの説明が出されている。跡継ぎがいない中で王位を狙う親族から命を守ろうとした、庶兄弟のアリストニコスのような不適格な者に王国が渡るのを恐れた、王国内の社会不安を終わらせる必要があった、王国がすでにローマに従属に近い関係にあることを自覚していた、というものである。

遺言の対象は王国であり、すべての都市が含まれたわけではなかった。エフェソスは紀元前134年に解放されており、首都ペルガモンやサルディスなど、遺言で自由を宣言された都市もあった。ペルガモンの市民決議は、王が亡くなって都市を自由のまま残したこと、その意思をローマが承認する必要があることを記している。ローマの護民官ティベリウス・グラックスは王国の財宝をローマ市民に提供するよう求めたが、元老院はこれを拒んだ。

王は紀元前133年に没し、ローマは同じ年に遺言を受け入れた。ただし、これを正式にローマのアジア属州とするのは紀元前129年になってからである。しかし国民のすべてがローマの支配を認めたわけではなく、エウメネス2世の庶子を名乗るアリストニコスが王を称して遺言に異を唱え、戦いを起こした。王の遺産に従う習慣のある諸都市を動かした彼は、ミュンドス、サモス、コロポンを力で奪い、法務官クラッススの軍を打ち破ってその本人を捕らえたと伝えられる。しかし最終的には、紀元前129年に執政官マルクス・ペルペルナに敗れた。ローマはこの年にようやくアジア属州を置き、王国はローマ、ポントス、カッパドキアなどに分けられた。ローマは都市に与えられた自由を尊重し、アリストニコスと戦った周辺の王たちにも王国の一部を与えた。たとえばポントス王はフリュギアの一部を受けた。新しい領土の編成のもとで、首都はペルガモンからエフェソスに移った。古代の著述家プリニウスは、この遺産を受けたことがローマの風俗に与えた害は昔の勝利以上に大きく、これ以後は王の財産の競売で買い手になることを恥じなくなったと述べた。またフロルスは、ローマが戦争ではなく遺言の権利によって属州を得たと述べている。

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