伝記
リチャード1世は、12世紀後半に活躍した、プランタジネット朝の第2代イングランド王(在位1189年9月3日〜1199年4月6日)である。通称は獅子心王という。1157年9月8日に生まれ、出生地はオックスフォードと推定されている。イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの三男で、当初は父の後継者とは考えられていなかった。幼少期の教育は不明な点が多いが、母のそばで過ごしたのち、1165年にはルーアンに呼ばれ、母がアンジェへ移るとともに移り住んだ。1168年からはポワティエで育ち、乗馬や武器の扱い、狩猟に励んだ。日常では父のフランス語(オイル語)を話し、母のオック語にも通じ、ラテン語も解したが、英語を学ぶことはなかったという。
1168年、次男が母の遺産を継ぐ慣習に従い、ヘンリー2世はリチャードをアリエノールの後継のアキテーヌ公候補とした。これにはアリエノールの意向もあり、リチャードは彼女のお気に入りの息子であったようである。5年間にわたり統治者としての教育を授けたのも母であった。1169年にはフランス王ルイ7世の娘アリーズと婚約したが、ヘンリー2世は結婚を延ばし続けた。当時の噂では、彼女は父王と関係を持ち、息子まで産んだとされ、1191年にリチャードはこれを理由に彼女との結婚を拒んで、ベレンガリア・オブ・ナヴァールを妻に選んだ。1171年にポワティエ伯、1172年にアキテーヌ公に叙任され、ポワティエとリモージュで槍と軍旗、聖なる指輪を受け取った。
1173年、兄の若ヘンリー王が父に反乱を起こすと、リチャードは弟のジョフロワらとともに兄に加わり、母の勧めでパリのフランス王のもとへ赴いて騎士に叙任された。母アリエノールは逃亡の途中で捕らえられ、以後15年以上にわたり幽閉された。リチャードはなおもアキテーヌで抵抗したが、1174年9月に降伏し、ポワティエで父の許しを乞うた。その後は父の要請でアキテーヌの反乱を「平定」する役を担い、1175年にはアジャンやリモージュを次々に奪還した。1177年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を守る遠征でダクスとバイヨンヌを占領した。1179年には難攻不落とされた城を3日間で落とすなど武名を上げ、「獅子心」の異名もこの戦いを通じて得たとされる。1182年から83年には反乱諸侯の同盟と戦い、リムーザンを荒らして残虐だったと年代記に記された。1183年に若ヘンリー王が没すると、イングランド王位の推定相続人となった。1189年に父が死去すると、リチャードはイングランド王として戴冠し、プランタジネット帝国を構成する領土を継いだ。ノルマンディー公とアンジュー伯も兼ねた。ただし10年の在位のうち、実際にイングランドにいたのは通算1年にも満たない。
フランス王フィリップ2世とともに第3回十字軍を率い、途中でキプロス島を征服し、アッコの制圧に貢献した。アイユーブ朝のサラディンに対してはアルスフの戦いなどで勝利を収めたが、エルサレムの奪還はできなかった。帰路にオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡され、1年後に巨額の身代金と引き換えに解放された。その後はフィリップ2世と戦い、1199年4月6日に、包囲戦で受けた傷がもとで没した。同時代から英雄とみなされ、城の築造を自ら指揮した武将であり、オック語とオイル語による詩の作品も知られる。
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