伝記
ブリュイのペトルスは、12世紀前半の南フランスで活動した放浪の説教者である。フランス南東部のブリュイの生まれとされるが、若いころのことは何もわかっていない。もとはカトリックの司祭だったが、正統とは異なる教えを説いたために職を奪われたとされる。1117年から1120年ごろの間に、ドーフィネ地方とプロヴァンス地方で説教を始めたとみられ、1119年にはアルプス山中の教区で活動をはじめたともいう。近隣のエンブラン、ディ、ガップの司教たちは、それぞれの管轄区域で彼の教えを禁じた。しかし公的な弾圧にもかかわらず、その教えはナルボンヌ、トゥールーズ、ガスコーニュにも支持者を得て、プロヴァンスからガスコーニュにかけての南フランスの都市で説教をした。
ペトルスは、福音書の権威を、文字どおりの解釈で認めた。新約聖書のそれ以外の部分は、使徒に由来するかどうか疑ったため、価値のないものとみなしたらしい。書簡はイエス・キリストの言葉ではなく人間の手によるものだとして、二次的な扱いにとどめた。旧約聖書や教父たちの権威も退けた。教会への軽蔑は聖職者にも及んでいた。
ペトルスの教えを伝える主な書き物の一つは、尊者ペトルスの反論の書で、もう一つはアベラールの記した一節である。尊者ペトルスは、ピエール・ド・モンボワシエとも呼ばれる修道院長で、国際的に知られた学者であり、当時の多くの宗教界や国の指導者と結びついていた。その尊者ペトルスが、ブリュイのペトルスの追随者に向けた反論の書の序文で、誤りとみなした五つの教えを挙げている。第一は幼児洗礼の拒否で、救いには個人の信仰と洗礼の両方が必要だと説いたという。第二は教会堂を建てる必要はないという主張で、神の教会は石の集まりではなく信者の一致だと説いたとされる。第三は十字架を壊して燃やせという勧めで、キリストを苦しめた道具は礼拝の対象にならないと説いたという。第四は聖体の秘跡の否定で、キリストは肉から生まれず、実際に苦しんで死んだこともなかったと説いたとされる。信徒には、司教や司祭を信じてはならない、彼らはキリストの体をつくると偽って人々を惑わしているのだ、と語ったという。第五は、生きている信者の供養や施しなどの善行が死者の助けになることを嘲ることだった。
彼を支持する人々はペトロブリュイ派と呼ばれ、次第に増えていった。ペトルスは司祭や修道士への暴力を説き、信徒たちには教会財産の略奪をそそのかしたとされる。賛同者は教会への抗議として、教会堂を壊し、十字架を焼き、祭壇をひっくり返し、聖金曜日に肉を食べ、聖職者を殴り、修道士に結婚を強いた。ペトルスは教会から何度も異端と宣告されたが、勢いは止まらなかった。1131年ごろ、サン・ジルで説教をしながら十字架を薪にして燃やしたところ、その光景に怒った群衆の一人に火の中へ突き飛ばされ、焼け死んだと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョスラン1世 (エデッサ伯) (1131年没)
- ボードゥアン2世 (エルサレム王) (1131年没)
- クヌーズ・レーヴァート (1131年没)
- サナーイー (1131年)
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