伝記
フィリップ・ダルザスは、中世フランドルの伯で、1143年に生まれ、1191年に十字軍の陣中で病死した。フランドル伯ティエリー・ダルザスと、その妻シビーユ・ダンジューの次男で、兄が1150年に亡くなったため、跡継ぎとなった。1155年、13歳で、すでに文書に伯の称号で名が出ている。1156年にヴェルマンドワ伯ラウル1世の娘エリザベートと結婚し、1157年の復活祭にアラスで、聖地へ向かう父から正式に権力を譲られた。
父の留守中、ホラント伯フロリス3世がゼーラントとワース地方を奪おうとし、ライン川へ向かうフランドルの商人に重税をかけたが、フィリップは1158年に艦隊で破った。1159年に父が帰国したのちは、父が儀礼的な役にとどまり、フィリップが経済と司法に力を注いだ。1163年にはグラヴリーヌを建設し、アラスの特許状を出した。側近のエールのロベールが統治を支えた。1166年にフロリス3世がふたたび重税を課すと、フィリップは艦隊でスヘルデ川をくだってフロリスを捕らえ、ブルッヘに幽閉した。翌1167年、フロリスはフランドルの宗主権を認めて身代金とともに釈放された。同じ1167年、義弟ラウル2世が退位して、エリザベートとフィリップがヴェルマンドワ伯領を受け継ぎ、フランドルの勢力はいちばん南まで広がった。1168年に父が亡くなり、単独でフランドル伯となった。
イングランド王ヘンリー2世と争ったカンタベリー大司教トマス・ベケットを、側近ロベールとの親交から支援した。1173年に若ヘンリー王が父に反乱を起こすと、兄のブローニュ伯マチューらと同盟し、ケントとドーヴァー城を約束されて、6月にルーアンを包囲したが、撤退し、マチューは戦死した。反乱は1174年までに鎮圧された。1175年には、エリザベートの不貞を知り、相手の男を撲殺させ、ヴェルマンドワの支配を確かなものにした。1177年、聖地へ向かい、病弱なエルサレム王ボードゥアン4世から摂政を望まれたが断った。エジプト遠征にも加わらず、十字軍国家の対立もあって、滞在は短く終わった。
1180年、姪のイザベル・ド・エノーを、持参金代わりのアルトワ伯領とともにフランス王フィリップ2世に嫁がせた。クレティアン・ド・トロワを庇護し、未完の『ペルスヴァル』を捧げられている。1183年に若ヘンリー王が早世すると、その死を惜しんだ。フィリップ2世がシャンパーニュ派と和睦してフィリップ・ダルザスを排除しようとすると、シャンパーニュ派やブルゴーニュ公ユーグ3世と同盟して反乱を起こしたが勝てず、1185年の和睦で、亡き妻のヴェルマンドワ伯領やアルトワ伯領など、領土の大半を失った。のちにポルトガル王アフォンソ1世の娘テレサと再婚したが、子はなかった。
第3回十字軍に加わって、1189年にカレーでリチャード1世を出迎え、1191年4月には、アリエノール・ダキテーヌに同行してシチリアのメッシーナまで船で渡った。同年6月1日にアッコの包囲戦の陣中で死去した。子がなかったため、フランドルの相続を不安に思ったフィリップ2世は、7月31日に十字軍を離れて帰国した。フランドルは妹夫婦が継承した。
同じ年に亡くなった人物
- シハーブッディーン・ヤフヤー・スフラワルディー (1191年)
- ヴェルフ6世 (1191年)
- ルドルフ・フォン・ツェーリンゲン (1191年)
- フリードリヒ6世 (シュヴァーベン大公) (1191年没)
- ティボー5世 (ブロワ伯) (1191年没)
同じ地域に関係する人物
- ツィヴィア・ルベトキン (1978年没)
- マルグリット・ド・フランス (1158-1197) (1197年没)
- アンリ2世 (シャンパーニュ伯) (1197年没)
- フリードリヒ1世 (オーストリア公) (1198年没)
- Andronikos Doukas Angelos (1185年没)