伝記
マルグリット・ド・フランスは、1158年に生まれ、1197年9月18日に没した、フランス王女である。フランス王ルイ7世と、2度目の妃であるコンスタンス・ド・カスティーユの娘で、イングランドの共治王若ヘンリーの妃となり、のちにハンガリー王ベーラ3世の妃となった。ハンガリー語ではマルギトと呼ばれる。異母姉にマリーとアリックスがいて、同母妹にアデル、異母弟妹にフィリップ2世とアニェスがいる。
母コンスタンスが亡くなり、ルイ7世がアデル・ド・シャンパーニュと3度目の結婚をした1160年、マルグリットは、イングランド王ヘンリー2世の嗣子ヘンリー(のちの若ヘンリー王)と結婚した。2人は、この年の11月2日に婚約したともいわれ、若ヘンリーは5歳、マルグリットは2歳であった。若ヘンリーは、ルイ7世の元妃アリエノール・ダキテーヌと、ヘンリー2世との間の子であった。嫁資はヴェクサンで、正式な引き渡しの前に、ヘンリー2世が勝手にヴェクサンを領有し、ルイ7世の抗議を無視してショーモン城も乗っ取った。
1170年、夫は父の共治王となったが、トマス・ベケットが亡命中であったため、マルグリットは7月14日の戴冠式で夫とともに戴冠されなかった。この手落ちは、彼女の父を大いに怒らせた。フランス王を喜ばせるため、ヘンリー2世は、1172年8月27日にウィンチェスター大聖堂で息子夫妻を一緒に戴冠させた。若ヘンリー王は人に好かれたが、影響されやすく、父に対する一族の反乱に加わった。この反乱での彼女の動きはわかっていない。1177年6月19日、マルグリットはパリで長男ウィリアムを早産したが、子は3日後に亡くなった。その後は子に恵まれなかった。
1182年、マルグリットは、ウィリアム・マーシャルとの不倫を噂された。これは、若ヘンリー王に絶大な信頼を得ていたマーシャルを妬んだ他の騎士の中傷ではないかという説がある。マーシャルは若ヘンリー王のもとを去らなければならなくなったが、翌1183年、若ヘンリー王は死の床にマーシャルを呼び、自分の代わりに十字軍に参加するよう言い残して病死した。彼女は、おそらく無実だったとみられる。若ヘンリー王の死でヴェクサンはフランスに返されることが決められていたが、異母弟フィリップ2世が返還を要求しても、ヘンリー2世が拒否し、ヴェクサンの領有権は長い問題となった。解決したのは、リチャード1世がヴェクサンを返還した1195年である。
1186年、マルグリットは、嫁資のジゾールとヴェクサンを手放す代わりに多額の年金を受け取って、ハンガリー王ベーラ3世の2番目の妃となった。ベーラ3世は、彼女の敬虔さと賢さを聞いて、妻を探していたという。1189年には、ベーラが王位を争う者として投獄していた弟ゲーザとの間に入って、兄弟の争いを収めた。ベーラ3世との間にも子は生まれなかった。1196年に2番目の夫とも死別し、翌1197年に、聖地への巡礼の途中で死去した。アッコに着いてわずか8日後で、遺体はティールの大聖堂に葬られたと伝えられる。なお、同母妹のアデルはリチャード1世の婚約者であったが、1191年に婚約が解消され、1195年にポンチュー伯ギヨーム2世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
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- エルマンガルド (1197年(推定))
- リース・アプ・グリフィズ (1197年没)
- インジヒ (1197年没)
- アンリ2世 (シャンパーニュ伯) (1197年没)
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- ナフマニデス (1270年没)
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