伝記
ユダ・マカバイは、紀元前2世紀のユダヤで、セレウコス朝シリアの支配に対する反乱を率いた民族的英雄である。祭司マタティアの三男で、モデインという村の出身とされ、旧約聖書続編の『マカバイ記』に事績が描かれている。ギリシア語名ではユーダス・マッカバイオス、ラテン語名ではユダス・マカベウスと呼ばれ、九偉人の一人にも数えられる。ヘブライ語の名イェフーダーは「ヤハウェに感謝する」という意味で、マカバイという添え名の由来には諸説あり、アラム語の「鉄槌」に由来して戦いの勇猛さをたたえたものだとする説や、出エジプト記の一節の頭文字だとする説などがある。
セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスは、エルサレムを占領して神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害して偶像崇拝を強いた。これに反発して紀元前167年、マタティアが五人の息子とともに蜂起した。翌年に父が亡くなると、ユダは遺志に従って反乱軍の指導者となった。当初はシリア正規軍との正面衝突を避け、ゲリラ戦で敵に不安を与える戦略をとり、サマリアの司令官アポロニオスを討ち取ると、その剣を奪って生涯戦場に携えたと伝えられる。続いてセロンの軍も破り、志願者が次々と集まった。
伝承によれば、ユダは夢の中で、ユダヤの民のために祈る大祭司オニアと預言者に出会い、「この尊い剣を取れ、これで敵を破ることができる」と黄金の剣を授けられたという。リュシアスが送り込んだ四万七千人ほどの大軍に対しては、ミツパで神に祈ったのち、エマオで夜のうちに行軍して敵陣を襲い、ニカノルとゴルギアスの軍を撃破した。リュシアスも自ら大軍を率いたが、ベテズルで敗れ、ユダと一時休戦した。こうしてユダはエルサレムを奪回し、異教の像を取り除いて神殿を清め、紀元前165年のキスレーウ月25日に礼拝を復活させた。これを記念して制定されたのが、今日まで祝われるハヌカーである。ただし要塞アクラのシリア守備隊は残った。
その後もユダは戦い続け、イドマヤ人やアンモンのティモテオスを破り、ガリラヤやギレアデで孤立した同胞を救い出した。しかし、政治的な独立まで求めたため、ハシディームなど宗教指導者の一部は彼のもとを離れたという。エウパトルを擁したリュシアスが再び侵入した戦いでは、王が乗っていると思い込んで象に立ち向かった兄弟エレアザルが命を落とし、ユダも撤退を余儀なくされた。エルサレムは包囲されたが、シリア側で将軍フィリッポスがクーデターを起こしたため、リュシアスはユダと和平を結んで引き上げた。
デメトリオス1世が即位すると、大祭司職を狙うアルキモスの求めに応じてバッキデスが派遣されたが、ユダは続いて送られたニカノルをアダサで討ち取った。彼はまた、使者を選んで、シリアと敵対するローマとの同盟関係を結び、外交にも目を向けた。紀元前160年、二万を超えるシリア軍が迫ったとき、ユダの兵は脱走が相次いで八百人ほどに減ったが、彼は敵前逃亡を拒んで戦い、戦死した。遺体は兄弟のヨナタンとシモンが引き取って葬り、ヨナタンが指導を継いだ。この闘争が、のちにハスモン朝が開かれる基礎となった。ユダの物語はヘンデルのオラトリオにもなり、その一曲は競技会の得賞曲として親しまれている。
同じ年に亡くなった人物
- Shanakdakhete (紀元前160)
- Hecato of Rhodes (紀元前160)
- デメトリオス2世 (紀元前160)
- ガイウス・ポルキウス・カト (紀元前 160年(推定))
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス (紀元前 160年(推定))
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