伝記
アフォンソ1世は、1109年ごろにギマランイスで生まれ、1185年12月6日に没した、ブルゴーニュ王朝の初代ポルトガル王(在位1139年〜1185年)である。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケスの名でも呼ばれる。父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ、母はカスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサである。主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いた。
1112年に父が没すると、アフォンソは父の跡を継いでポルトゥカーレ伯となり、母テレサが摂政として伯領を統治した。テレサは、女王である姉のウラカに服属しなければならなかった。1121年、ガリシアの再興をめざすトラヴァス家の当主ペドロ・フロイラスは、息子のフェルナン・ロペスを寡婦のテレサと結婚させた。ポルトガルの貴族はトラヴァス家への従属を拒み、領内の司教たちもサンティアゴ大司教の進出を快く思わなかった。1127年には、ウラカの跡を継いだ従兄のアルフォンソ7世に包囲されて降伏し、臣従を誓っている。歴史の表舞台に初めて現れるのは1128年で、ガリシア貴族と結ぶテレサに不満を抱くポルトガル貴族の支持を集め、6月24日にギマランイス近郊で母とフェルナン・ロペスらのガリシア派を破り、彼らをガリシアに追放した。以後、ポルトガルの独立、教会自治権の獲得、イスラム教徒からの国土回復運動(レコンキスタ)を目標に活動した。
1131年には首都を生地のギマランイスからコインブラに移し、ミーニョ地方の貴族の影響下から脱した。1137年にトゥイで条約を結んで臣従を誓ったが、両者の関係はまもなく悪化した。1139年7月25日、オーリッケの戦いでムラービト朝に大勝すると、ポルトガル王を称した。楯の上に立ち、戦場の騎士全員から王に選ばれたと伝えられ、後世には、十字架上のキリストから勝利の予言を受けたという建国神話も作られた。1143年、教会の仲介によるサモラ条約で、カスティーリャ=レオンとの和平が成立し、ポルトガルの独立が承認された。アルフォンソ7世は宗主権が及ぶと考えたが、アフォンソは独立した君主として振る舞った。1145年には、同格の地位に立つため、教皇に封臣として臣従して領土を寄進する申請書を提出し、教皇ルキウス2世は寄進を受け取ったものの、王号は認めなかった。
1147年3月にサンタレンをイスラム勢力から奪回して名声を高め、同年、第2回十字軍の分派と協定を結んで、10月25日にリスボンを占領した。その後は、テージョ川流域の防衛のためテンプル騎士団など諸騎士団の力も借りた。1157年にアルフォンソ7世が没してカスティーリャ=レオンが分裂すると、臣従の義務は消え、1168年までにアルガルヴェを除くアレンテージョ全土を奪還した。1169年、バダホスの城から脱出する際に片足を負傷してレオン王フェルナンド2世に捕らえられ、ガリシアの権限を放棄した。軍の指揮権は王子サンシュに移った。1179年、教皇アレクサンデル3世から征服地の支配権を認められ、子孫とともに正式な王位を認められた。1185年12月6日にコインブラで没し、遺体はサンタ・クルース修道院に葬られ、サンシュが王位を継いだ。1146年に結婚した妻マファルダ・デ・サボイアとの間に7人の子をもうけたほか、数人の婚外子がいる。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・トファイル (1185年没)
- ルキウス3世 (ローマ教皇) (1185年没)
- アンドロニコス1世コムネノス (1185年没)
- Andronikos Doukas Angelos (1185年没)
- バースカラ2世 (1185年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ (1198年没)
- アリスティデス・ペレイラ (2011年没)
- アフォンソ2世 (ポルトガル王) (1223年没)
- Sancha of Portugal (1229年没)
- ペドロ・テイシェイラ (1641年没)