伝記
アフォンソ2世は、ポルトガルの第3代の王(在位1211年〜1223年)である。1185年4月23日に生まれ、父はサンシュ1世、母はバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世とアラゴン女王ペトロニラの長女ドゥルセ・ベレンゲルである。三人の姉が先に生まれており、彼は四番目の子だったとされる。祖父の初代王アフォンソ・エンリケスが亡くなった年の生まれで、その体格から「肥満王」と呼ばれた。歴代のポルトガル王の中で、国内の高位聖職者や貴族の力を弱めようとした最初の人物とされる。
1208年に、カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ウラカと結婚し、4男1女をもうけた。二人はごく近い親戚で、教会法に反する結婚だったため、ポルト司教が新郎新婦の入城に反対し、これに父サンシュ1世が激しく反応したという。1211年に父の跡を継いで王位に就くと、最初の数年は国内の争いに追われた。父が遺言で三人の姉妹に、モンテモル・オ・ヴェーリョ、セイア、アレンケルなどの城と収入を与えていたため、王権を集中させたい国王との間で1211年から1216年ごろまで対立が続いたのである。この争いは教皇インノケンティウス3世の介入で収まり、王は姉妹にかなりの金を支払い、城の守備はテンプル騎士団に任された。ちょうど1212年のナバス・デ・トロサの戦いの時期と重なり、国王自身は参戦せず、動員できる兵は少なかったという。それでも臣下の多くはカスティーリャ王のもとに集まった。
彼の治世は、前代までの好戦的な傾向とは異なる統治の型を示した。国境をめぐってガリシアやレオンと争わず、南への拡大にも熱心でなかった。1217年に、第5回十字軍の分派を率いたホラント伯ウィレム1世らの助けでアルカセル・ド・サルを獲得したが、これが治世で唯一のレコンキスタの成果とされる。一方で内政には力を注ぎ、ポルトガル最初の一般法が成立した。この法は私有財産、民法、貨幣の鋳造などを主な対象としたとされる。王の諮問機関クリアが整えられ、重要な議題では聖職者、有力貴族、騎士団長が招集された。これが後の国王議会の起源とされる。通商条約を結ぶため、ヨーロッパの各国へ使節も送られた。1220年にはサンティアゴ巡礼の道を歩いたともいわれる。同年には王領検察制を実施して土地の権利関係を調べ、1216年以降は相続領地の安堵を王に申請させる制度も行われて、国内の検地が進んだ。この検察制は、彼の死と若いサンシュ2世の即位で中断された。
聖職者に対しては、収入の一部を徴収しようとして、宗教団体による土地の購入を禁じた。しかし個人の聖職者の購入は認められており、成功とは言えなかった。こうした対立から教皇ホノリウス3世に破門を宣告され、教会への補償を約束したが、実行しないうちに1223年3月25日に没し、破門は生前に解かれなかった。死因は病とされ、37歳だったという。ハンセン病だったとの噂もあるが、極度の肥満が原因ともいわれる。子らは幼く、継いだサンシュ2世は14歳に満たなかったため、国は混乱し、弟のアフォンソ3世が王位を争って得ることになった。教会との問題が片づいた後、遺体はアルコバサ修道院に葬られたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ2世 (フランス王) (1223年没)
- Raymond-Roger of Foix (1223年)
- Sancho, Count of Provence (1223年)
- ムスチスラフ3世 (1223年没)
- ヴィンツェンティ・カドゥウベック (1223年)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ・テイシェイラ (1641年没)
- アリスティデス・ペレイラ (2011年没)
- イネス・デ・カストロ (1355年没)
- ルシア・ドス・サントス (2005年没)
- Sancha of Portugal (1229年没)