伝記
高倉天皇は、1161年9月23日に生まれ、1181年1月30日に没した日本の第80代天皇(在位1168年〜1180年)である。諱は憲仁といい、後白河天皇の第7皇子で、母は皇太后の平滋子(建春門院)である。安徳天皇と後鳥羽天皇の父にあたる。滋子は平清盛の妻、平時子の異母妹で、清盛は憲仁にとって義理の叔父にあたった。当時は二条天皇によって後白河院が院政を停止された状態にあり、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に憲仁を立てる動きがあった。誕生直後の9月15日には、叔父の平時忠と清盛の弟の平教盛が、二条天皇によって解官されている。身分の低かった滋子は、1163年に清盛の娘で近衛基実の妻だった平盛子の猶子となり、早くから平家と密接な関係にあった。
1165年7月に二条天皇が崩御し、その子の六条天皇が立てられたが、憲仁は3歳年長だったにもかかわらず、1166年10月に皇太子となった。2年後の1168年2月19日、六条天皇はわずか5歳で退位させられ、8歳の憲仁が天皇に擁立された。政務は父の後白河院が院政を敷いてとった。
1172年には、清盛と時子の娘で従姉にあたる平徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎えた。笛を好み、堀河天皇、鳥羽天皇と並ぶ笛好きの天皇として知られた。御遊の場で初めて笛を演奏したのは、1175年1月4日、15歳のときに後白河院の御所の法住寺殿で催された朝覲行幸の御遊だった。この前に熱心に練習を重ね、笛の名手の藤原実国がたびたび伺候していた。この儀礼について、九条兼実は鳥羽天皇の例に準じるべきだと主張したが、最終的には鳥羽天皇の在位末期の例に準じて行われ、兼実は『玉葉』に不満を記した。当日、天皇の笛は五位の殿上人や左大将師長、関白基房の手を経て、厳重に扱われた。その笛の音を、九条兼実は『玉葉』に「御笛神也、妙也」と記して絶賛している。実国は「御笛師賞」として正二位に叙された。1176年には後白河院の50歳を祝う御賀の後宴で、管絃に加えて舞楽の伴奏でも笛を担当した。琵琶も少しは嗜んでいたようである。また、高倉院の時代は漢文学が再興された転換期で、源通親や平親宗ら院近臣の青年貴族と、藤原永範、藤原俊経といった侍読を務める儒者たちが、詩壇を形づくった。1178年11月12日に中宮徳子が皇子(のちの安徳天皇)を産み、12月15日に早々と皇太子とした。
1179年11月、後白河院と清盛の対立が深まり、治承三年の政変で後白河院が幽閉されると、高倉天皇みずから政務をとった。この時期、天皇は王家の新しい家長としての自覚をもち、自分の御所である後院を設けて、側近を後院別当に任じ、王家領の掌握を進めようとした。ただ、その権力は平家の武力に大きく頼っていた。長らく高倉天皇は平氏政権の傀儡とされてきたが、1990年代以降、その評価は大きく見直されている。1180年2月、清盛の孫にあたる安徳天皇に譲位して太上天皇となり、院政を始めたが、まもなく病に倒れて崩御した。21歳だった。藤原定家は『明月記』に、院の死を「心肝摧けるが如し、文王已に没す」と記している。源通親も院を「風月旧主」と呼んで死を悼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- マフサティー (1181年)
- クレティアン・ド・トロワ (1181年(推定))
- Ludwig II of Wurttemberg (1181年)
- アッサリフ・イスマイル・アルマリク (1181年没)
- 平清盛 (1181年没)
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