伝記
クレティアン・ド・トロワは、12世紀後半のフランスの詩人で、騎士道物語をうたうトルヴェールとして名高い。アーサー王物語の文学の創始者とも見なされている。生涯についてはほとんど知られておらず、わかるのは名前と作品の一覧、そして作品を書いた時期を区切る二つの年代くらいである。名は『エレックとエニード』の序文に「トロワのクレティアン」として現れる。トロワまたは少なくともシャンパーニュ地方の生まれと考えられ、作品にはシャンパーニュ方言の痕跡がある。生年は1130年ごろ、没年は1180年から1190年の間とされるが、没年を1181年と推定する説明もある。
1160年ごろに文学活動を始め、オウィディウスの『愛の技法』や『変身物語』の一部を翻訳したとされる。このうち現存するのは『ピロメナ』だけで、最初のアーサー王物語にあたるマルク王とイゾルデの詩も失われた。主要な物語詩は、8音節の対句で書かれた5編である。『エレックとエニード』は1170年ごろ、『クリジェス』は1176年ごろとされ、1160年代に遡らせる説もある。『イヴァンまたは獅子の騎士』と『ランスロまたは荷車の騎士』は1177年から1181年ごろに並行して書かれたとされるが、それより早い年代を挙げる説もある。最後の『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』は未完に終わった。
彼は1160年から1181年の間、シャンパーニュ伯アンリ1世の夫人マリーの庇護を受けて宮廷に仕えた。マリーはフランス王ルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの娘である。『ランスロ』の序文は、この「シャンパーニュの奥方」の命によって書いたと述べ、依頼された作品であることを示している。『ペルスヴァル』の序文では、フランドル伯フィリップに仕えていたことを明らかにしているが、この伯が作品の依頼主だったことを裏づける史料はない。『ランスロ』の最後の1,000行は書記のゴドフロワ・ド・レイニが書き、クレティアンが手を入れた。クレティアンが自分で結末を書かなかった理由は不明で、結婚愛を描くことに優れた彼が、ランスロとグィネヴィアの姦通を書ききれなかったのではないかという憶測もある。
『ペルスヴァル』は約9,000行で中断し、のちに4人の続編作者が計54,000行を書き足した。ある続編作者は、詩人は死のために物語を完成できなかったと記している。出自については、小貴族の出身で聖職者を志したという推測や、1173年の文書に署名のある参事会員と同一人物ではないかという推測があるが、確かな裏づけはない。『ピロメナ』での署名から改宗ユダヤ人だったとする説もあるが、これも確定していない。ヴォルフラムが彼を聖職者として扱ったことは、聖職者説の傍証にもなりうるが、偉大な作家への敬意の表れとも読める。
彼の物語は大変な人気を得て、多くの写本と翻訳が残った。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』、ハルトマン・フォン・アウエの『イーヴァイン』『エーレク』は、ペルスヴァル、イヴァン、エレックを下敷きにしている。マビノギオンのウェールズの三つのロマンスも、同じ三作に由来するとみられるが、関係は直接的ではなく十分に説明されていない。クレティアンは聖杯と、ランスロとグィネヴィアの禁断の恋を作品に取り上げた最初の作家とされる。ブリテンの題材をフランスの読者の好みに合わせて脚色し、粗野な民衆の伝承を優雅なものに磨き上げたことが、その功績とされる。
同じ年に亡くなった人物
- レーモン・ベランジェ3世 (プロヴァンス伯) (1181年没)
- アレクサンデル3世 (ローマ教皇) (1181年没)
- 高倉天皇 (1181年没)
- アデラ・フォン・マイセン (1181年没)
- マフサティー (1181年)
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