伝記
ファフリ・コルテュルクは、1903年8月3日(8月15日ともいわれる)、イスタンブールに生まれたトルコの軍人であり、外交官、政治家である。生まれたのは、トプカプ宮殿とアヤソフィアの間の小さな通りだったとされる。1916年にオスマン帝国の海軍兵学校に入り、1923年に卒業した。1933年には海軍大学校を卒業した。巡洋艦や潜水艦に乗り組んだのち、大使館付き武官として、ローマ、ベルリン、ストックホルムに駐在した。1934年3月18日、初代大統領ケマル・アタテュルクと会った際に、「コルテュルク」の姓を与えられたという。1936年には、モントルー条約の締結交渉に、軍の専門家として参加している。
1950年に少将に昇進し、さまざまな部隊を指揮して、大将まで昇った。1960年に海軍総司令官を退いて退役した。退役直後、ジェマル・ギュルセル大統領により、駐ソビエト連邦大使に任命され、次いで駐スペイン大使を務めた。1968年にはジェヴデット・スナイ大統領により、上院議員に指名された。1973年4月6日、トルコ大国民議会により、第6代のトルコ大統領に選ばれた。在任中の1974年には、キプロスで大司教マカリオス3世が、ギリシャの将校が率いるキプロス国家警備隊によって追われたあと、トルコ軍のキプロス出兵を主宰した。
7年の任期を全うして、1980年4月6日に退任した。ケナン・エヴレンは、軍の介入によって、もう一期、大統領を務めるよう勧めたと語っているが、軍人と議員の双方から尊敬されていたコルテュルクは、これは憲法違反だとして断ったという。しかし、二大政党の共和人民党と公正党が対立して、議会が後任の大統領を選べず、これを政党政治の限界と見た軍部が、同年9月12日に軍事クーデターを起こす事態となった。そのため、大統領職は1982年まで空位になった。退任後のコルテュルクは終身上院議員となったが、クーデター後の憲法改正で、上院は廃止された。
のちにエメルと結婚した(時期は1944年とも1935年ともいわれる)。2男1女をもうけた。息子のオスマンは、1996年にテヘラン駐在のトルコ大使に任命された。1987年10月12日、イスタンブールのモダで死去し、アンカラの国家墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・フォード2世 (1987年没)
- リベラーチェ (1987年没)
- イヴ・アレグレ (1987年没)
- Patrick O'Boyle (1987年没)
- ジャコ・パストリアス (1987年没)
同じ地域に関係する人物
- Patriarch Parthenius III of Constantinople (1657年没)
- チャヒット・アルフ (1997年没)
- カラマニ・メフメト・パシャ (1481年没)
- ハサン・サカ (1960年没)
- Patriarch Dionysius II of Constantinople (1556年没)