伝記
ウィルフレッド・エドワード・ソールター・オーエンは、1893年3月18日にイングランドとウェールズの境界に近いシュロップシャーのオスウェストリーで生まれ、1918年11月4日に没したイギリスの詩人であり軍人である。第一次世界大戦を題材にした詩で知られ、「死すべき定めの若者のための賛歌」などの作品がある。トーマスとスーザン・オーエンの4人の子の長男で、生まれたとき一家は、母方の祖父エドワード・ショーが所有する快適な家に住んでいた。祖父が1897年に亡くなり、家が売られると、一家は労働者向けの住宅街であるバーケンヘッドの裏通りに移った。鉄道会社に勤める父は、その後、シュルーズベリー、バーケンヘッドと転勤し、1907年に一家はシュルーズベリーに戻った。オーエンはバーケンヘッド学院やシュルーズベリー・テクニカルスクールで教育を受けた。
1903年か1904年ごろ、チェシャーでの休暇中に、詩人としての天職に目覚めたとされる。初期の影響は聖書とロマン派の詩人で、とくにワーズワースとキーツを耽読し、キーツを自己の偶像として崇拝した。1911年にロンドン大学の入学試験に合格したが、奨学金に必要な第一級の成績には届かず、進学できなかった。同年9月から1913年2月まで、レディング近郊ダンズデン村の牧師の助手を務め、無料の宿泊と受験の指導を得た。この教会での経験から、その儀式と、困窮者に援助を与えない姿勢に幻滅した。1913年からフランスのボルドーで、語学学校の英語・フランス語の教師となり、のち家庭教師もした。戦争が起こったとき、すぐには入隊せず、フランス軍への参加も考えたが、最終的にイギリスに帰った。
1915年10月21日に芸術家ライフル連隊に入隊し、約7か月、エセックスの野営地で訓練を受けた。1916年6月4日、マンチェスター連隊の少尉に任官した。当初は部下の粗野なふるまいを軽蔑し、母への手紙で、中隊を「無表情な塊」と書いた。しかし、砲弾の穴に落ちて脳震とうを起こし、塹壕迫撃砲の爆風を受けて、同僚の将校の遺体の中で数日間、意識を失ったままだった。その後、神経衰弱、つまり戦争神経症と診断され、エディンバラのクレイグロックハート戦争病院で治療を受けた。そこで詩人ジークフリート・サスーンと出会ったことは、オーエンの人生を変えた。サスーンの強調したリアリズムと「体験から書くこと」が作風の核になり、今日評価されている詩の多くは、出会い以降に書かれた。代表作の「死すべき定めの若者のための賛歌」も、サスーンの添削を受け、推敲を重ねたものである。11月に病院を退院し、軽い任務に就き、1918年3月にリポンに配属され、「むなしさ」や「奇妙な出会い」などを書いたり改稿したりした。
1918年7月、国内勤務を続けることもできたのに、フランスの現役任務に戻った。サスーンが頭部を撃たれて英国に送り返されたことや、戦争の恐ろしい現実を語り続けることを自分の務めと考えたためだったと思われる。サスーンは前線復帰に強く反対したが、オーエンは内密に復帰した。10月には軍事十字章を受け、第一次世界大戦の休戦のちょうど一週間前の11月4日に戦死した。25歳であった。休戦の当日に、戦死の公報が母のもとに届けられた。作品の多くは没後に出版され、サスーンの紹介で彼の詩を知った人々が最初の詩集の出版に尽力し、第二詩集はエドマンド・ブランデンが刊行した。ベンジャミン・ブリテンは、『戦争レクイエム』にオーエンの詩9編を取り入れた。
同じ年に亡くなった人物
- アマデオ・デ・ソウザ=カルドーゾ (1918年没)
- ダニエル・ウールフォール (1918年没)
- エドゥアール・シャヴァンヌ (1918年没)
- ゾフィー・メンター (1918年没)
- アーニー・パーカー (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン1世 (エノー伯) (1257年没)
- Charles Pacome (1978年没)
- Jean Cau (1921年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)
- Ahmed Oudjani (1998年没)