伝記
ジャン1世・ダヴェーヌは、1218年5月1日に現在のベルギー・リュクサンブール州のウファリーズで生まれ、エノー伯を継いだ人物である。父はアヴェーヌ領主ブシャール4世、母はフランドル女伯兼エノー女伯のマルグリット2世であった。ところが両親の結婚は教皇によって解消され、1221年に二人は離婚する。1223年に母がダンピエール伯ギヨーム2世と再婚して異父弟のギヨームやギーらをもうけたため、ジャンは庶子の汚名を負ったまま、異父弟たちと後継を争う立場に置かれた。
教皇は1236年と1239年に、ブシャールとマルグリットの子であるアヴェーヌ家の兄弟を庶出で相続の資格がないと宣言した。これに対して、ジャンの同母兄弟のボードワンは、自分たちの嫡出を認めさせようと動く。1243年3月には皇帝がその嫡出を認めた。しかし1244年に母マルグリットが異父弟ギヨームを後継者に指名すると、ジャンはこれに反発して戦いを起こした。これがフランドル継承戦争である。
1246年、フランス王ルイ9世の調停によって、エノーはアヴェーヌ家に、フランドルはダンピエール家に与えられることになった。同じ年にジャンはホラント伯フロリス4世の娘アーデルハイトと結婚し、その兄ギヨームが1247年にローマ王に選ばれると、有力な後ろ盾を得たアヴェーヌ家は再び武器を取った。しかし母がエノーを手放さず、1247年にフランドルをギヨームに与えたため、争いは再燃する。ジャンはルペルモンドを攻め、ワース地方などを荒らしたとされる。1250年には教皇も嫡出を認め、ジャンはこの年から、エノーの相続人を名乗って同地に滞在し、統治にかかわる文書を多く出した。
1251年にギヨームがトラズニーの馬上槍試合で命を落とすと、ダンピエール家はアヴェーヌ家が仕組んだと責め、戦いは異父弟ギーとの間で続いた。1253年にギーはウェスト・カペレの戦いで敗れて捕らえられる。マルグリットは1254年にエノーをシャルル・ダンジューに売ろうとし、シャルルは出兵してヴァランシエンヌを奪い、モンスを包囲した。ジャンは義兄ホラント伯ギヨームからあまり援軍を得られないまま、いくつかの勝利を収め、ヴァランシエンヌの奪回を試み、イングランド王の助力も求めた。1256年にそのギヨームが戦死し、ギーは捕らわれたまま、シャルルもエノーで戦いを進めあぐねていた。そこへ十字軍から戻ったルイ9世が和平を命じた。シャルルは断念し、マルグリットから金銭の償いを受けた。ジャンは1246年に武器を取った責めでとして領土をいくらか削られたものの、エノーを保った。ダンピエール家もエノーへの要求を最終的に放棄し、マルグリットも子らと和解したが、アヴェーヌ家とダンピエール家の仲がよくなることはなかった。
ジャンはその後まもなく、1257年12月24日に39歳で急死した。遺体は初めルーズに葬られ、1280年に母が亡くなると、ヴァランシエンヌのドミニコ会修道院の聖歌隊席に移された。エノーはジャンの子ではなく母が再び領有した。ジャンには6人の子があり、ジャン2世は後にエノー伯となった。ブシャールはメス、ギーはユトレヒト、ギヨームはカンブレーの司教となり、フロランはアカイア公となった。娘のジャンヌはフリヌの修道院長となった。ジャンは紋章に、ダンピエール家の異父弟たちと同じく、フランドル伯家の紋章を用いた。ただし母との争いののち、ルイ9世の命により、爪も舌もない獅子を着けさせられたという。
同じ年に亡くなった人物
- サルタク (1257年没)
- ホーコン若王 (1257年没)
- シャジャル・アッ=ドゥッル (1257年没)
- ウラクチ (1257年没)
- プシェミスウ1世 (1257年没)
同じ地域に関係する人物
- ウスタシュ1世 (1049年没)
- ブルーノ・メツ (2013年没)
- アーニー・パーカー (1918年没)
- ヴィルヘルム1世 (バイエルン公) (1389年没)
- Lazare Gianessi (2009年没)