HISTORICAL PERSON · 1917年没

フェルディナント・フォン・ツェッペリン

ドイツの陸軍中将で発明家、企業家。硬式飛行船を実用化し、「ツェッペリン」は硬式飛行船を意味する普通名詞になった。1900年に来日した。

生涯
1917年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(コンスタンツ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵は、1838年7月8日にバーデン大公国のコンスタンツで生まれ、1917年3月8日に没したドイツの軍人(陸軍中将)で、発明家・企業家である。硬式飛行船を実用化した人物であり、「ツェッペリン」は、幾つもの言語で硬式飛行船を意味する普通名詞になった。1900年に来日し、皇居の上空を避けて飛んだため、日本でも「Z伯」の名で報道されて有名になった。父はヴュルテンベルクの大臣で宮廷侍従長を務めた人物で、幼少期はコンスタンツ近郊の屋敷で家庭教師に教育された。1853年にシュトゥットガルトの工科学校を退学して、1855年にルートヴィヒスブルクの士官学校に入り、ヴュルテンベルク王国で軍人としての道を歩み始めた。

1858年までにヴュルテンベルク軍の少尉となり、自然科学、工学、化学を学ぶため休暇を許されてテュービンゲンに行ったが、翌年に第二次イタリア独立戦争が勃発すると、工兵として動員され、勉学を中断した。1863年、南北戦争で北軍の観戦武官になるためアメリカへ渡った。タデウス・ロー教授の気球部隊を訪れたが、教授は好奇心を満足させてくれなかったため、ドイツ人飛行士シュタイナーを紹介され、その気球に乗って初めて飛行を体験した。その後、ロシア人やインディアンからなる遠征隊に加わって、ミシシッピ川の源流を探った。1865年にヴュルテンベルク王カール1世の副官に任命され、1866年の普墺戦争には参謀として従軍した。1870年から1871年の普仏戦争では、騎兵としてフランス軍の敵陣深くまで偵察を行い、ドイツ側で有名になった。1869年には再び訪米して、ローのもとで気球の扱いを習い覚え、同年にイザベラ・フォン・ヴォルフと結婚して、一人娘のヘレーネが生まれた。1882年から1885年までウーラン連隊の司令官を務め、最終的にはヴュルテンベルクの公使としてベルリンに行ったが、1890年に職務の瑕疵を非難されて退役を余儀なくされた。

1880年代以降は、操縦可能な気球という概念に夢中になり、1874年にはすでに完全な青写真を書き上げ、カール1世に大型飛行船の軍事利用を勧める書状を出している。退役に追い込まれると、硬式飛行船の開発に打ち込んだ。技師を雇って様々な材料を試し、優れたエンジンを入手し、各種のプロペラを試した。1891年6月に製造開始を伝えたが、直後に空気抵抗を過小評価していたことに気づいた。当時の最良のエンジンを使っても、十分な速度が出なかったのである。エンジンや部下のトラブルに悩まされたものの、「硬いアルミニウムの外皮が複数の気嚢を包み、プロペラ、舵、エンジン、操縦室はいずれも固定される」という硬式飛行船の構想を煮詰めた。1892年に航空技術者テオドール・コーバーを雇って設計を進め、1895年8月には、複数の縦列に配置された牽引体をもつ航空列車の特許を取得した。

1896年の初め、操縦可能な飛行船についての講義が多くの聴講者に感銘を与え、ドイツ技術者協会は募金運動を始めた。1898年5月までに、ダイムラーらを集めて飛行船振興会社を創設し、総資本金の半分を超える44万1000マルクを自ら出資した。こうして史上初の硬式飛行船LZ1が完成した。ボーデン湖上空を3回飛行し、世論を陶酔させた。1908年にLZ4が墜落したことが、かえって公衆の興味を惹き、650万マルクの募金が集まった。1917年に、第一次世界大戦の終戦を待たずベルリンで死去した。飛行船事業はフーゴー・エッケナーが引き継いだ。

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