伝記
リリウオカラニは、1838年9月2日にホノルルで生まれた、ハワイ王国第8代の国王で、最後の君主であり、唯一の女王である。在位は1891年1月29日から1895年1月までだった。1878年に作詞作曲した『アロハ・オエ』は今も多くの人に親しまれ、ほかにも「女王の祈り」や、ハワイ王国の創世神話『クムリポ』の英訳などの著作を残した。生誕時の名はリリウ・ロロク・ワラニア・カマカエハで、父カパアケア、母ケオホカオラは王室とつながる高位の家柄だった。母はカメハメハ3世の顧問の一人で、同王は1840年に国民に憲法を与えた。当時のハワイでは、首長たちの親睦のため子を交換して養子にする風習があり、リリウオカラニも2歳で、有力な首長の一人でカメハメハ1世の孫にあたる人物のもとに養子に出された。4歳になると、首長子弟学校に入って、他のホノルルの王族とともに英語や音楽を学んだ。幼いころから好奇心旺盛でお転婆な性格で、島々を巡って史跡や雄大な自然を見て回るのが好きだったという。
ハワイ王国は、1795年にカメハメハ1世が全島を統一して成立し、1840年には憲法を制定して立憲君主制となった。一方でアメリカ合衆国は、領土獲得を競う列強の帝国主義に加わりつつあり、サトウキビの大規模なプランテーションが増えるなか、「砂糖貴族」と呼ばれる白人経営者の発言力が増していた。ハワイ人による王政の強化を求める王政派と、王政を倒してアメリカへの併合を目指す共和制派の対立が深まった。リリウオカラニは、のちにオアフ島知事となる米国出身の白人、ジョン・O・ドミニスと結婚した。この時代のハワイ王家は短命の者が多く、1873年にカメハメハ5世が死去して直系が絶え、後を継いだルナリロも翌年に死去した。1874年に兄のカラカウアが即位し、彼女は1877年に女性で初めての王位継承者となった。1887年にヴィクトリア女王の在位50周年の祝典に招かれ、国王の名代として謁見した。しかしこの機に共和制派のクーデターが起こり、カラカウアは国王の権限を大幅に制限する新憲法への署名を余儀なくされた。
1891年、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、リリウオカラニは女王として即位し、共和制派との対決姿勢を強めた。ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日に国王の権限を強める憲法草案を閣議に出したが、否決された。危機感を募らせた共和制派は、米国公使スティーブンスの要請を受けたアメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲するなか、17日に政庁舎を占拠して王政廃止と臨時政府の樹立を宣言した。ハワイ革命である。米国政府は最終的にこの「革命」が不法だと認め、公使を更迭して調査団を送ったが、臨時政府は内政干渉だと突っぱねた。1894年7月4日、サンフォード・ドールを大統領とする共和国の独立が宣言された。
翌1895年1月、王政派が反乱を起こしたが鎮圧された。銃器が見つかったとして、リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日、捕らえられた約200人の命と引き換えに女王廃位の署名を強制され、王国は滅亡した。2月に罰金5,000ドルと5年の重労働の判決を受けたが、9月に釈放された。ハワイは1898年に米国に併合された。夫は彼女の即位の7か月後に亡くなっており、子はなく、姪のカイウラニが王位継承者だったが、併合の翌年に死去した。リリウオカラニは旧女王としてハワイ人の敬愛を受けつつ、1917年11月11日、79歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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