伝記
ヨハンナ・マリア・マクダレナ・ゲッベルス、通称マクダは、1901年11月11日、ベルリンに、建築家オスカー・リッチェルと、ホテルでメイドをしていたアウグステ・ベーレントの間に生まれた。両親は、父の多忙とすれ違い、父の不倫が原因で、マクダが3歳のときに離婚した。2年後の1906年、母はユダヤ人で裕福な皮革工場主と再婚し、マクダもフリートレンダー姓を名乗った。1908年に一家はブリュッセルに移り、母は多忙を理由にマクダを、修道院付属のカトリック系の寄宿学校に入れた。第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍のブリュッセル侵攻のためベルリンへ逃げ帰った。実父と継父の関係は良好で、休暇中は二人が交代で外国旅行に連れて行った。やがて母と継父は離婚し、マクダは1919年3月にアビトゥーアに合格して、ゴスラーの女子寄宿学校に入った。
1920年、19歳のマクダは、列車内で38歳の裕福な実業家ギュンター・クヴァントと出会い、1921年1月4日に結婚した。結婚に際し、クヴァントの希望でカトリックからプロテスタントに改宗した。11月に長男ハラルトを出産し、クヴァントの前妻との間の子や、親友の遺児を含め、いきなり多くの子の母親になった。しかし、仕事人間で吝嗇だったクヴァントとは性格が合わず、夫婦仲はうまくいかなかった。1927年に、クヴァントの長男ヘルムートが盲腸炎の合併症で亡くなると、亀裂が入り、不倫を探偵の報告で知ったクヴァントはマクダを家から追い出した。マクダは弁護士を立てて争い、1929年7月6日に離婚が成立し、住居費や生活費を得た上、ハラルトの養育権を得た。
1930年8月31日、知人の誘いでナチスの集会に参加し、ヨーゼフ・ゲッベルスの演説を聞いて熱狂し、翌日にナチス党へ入党した。地区婦人部の部長に就き、ローゼンベルクの著書やヒトラーの『我が闘争』を読み通した。のち党管区指導者代理の秘書課に配属され、1930年11月7日にゲッベルスの個人資料係となった。二人は1931年夏に婚約し、同年12月19日、ヒトラーが立会人となって、元夫クヴァントの屋敷で挙式した。プロテスタントのマクダとの結婚で、カトリックのゲッベルスは教会から破門され、ヒトラーも戒告を受けたという。ユダヤ人と再婚していた母アウグステはこの結婚に反対した。1933年1月にヒトラー内閣が成立し、3月にゲッベルスは国民啓蒙・宣伝省の大臣に指名された。マクダは5月14日に母の日のラジオ演説を行った。夫婦には6人の子が生まれ、いずれも名前がHの頭文字で始まる。金髪で美しいマクダと子供たちは、理想的な母親像として宣伝に利用された。
ゲッベルスは次々と女優に手を出し、1930年代後半には、チェコの女優との不倫騒動が起きた。マクダはヒトラーに離婚を申し出たが、ヒトラーは激怒し、しばらく別居して夫が品行方正であることを求めた。1939年1月22日、夫婦は結婚継続の契約書にサインし、女優はドイツから追放された。1942年ごろ、マクダは夫からラインハルト作戦について聞かされ、その恐ろしさを友人に告白している。1945年4月、ソビエト赤軍がベルリンに入ると、ゲッベルスは22日に妻子を総統地下壕に呼び寄せた。27日、マクダはヒトラーの黄金ナチ党員バッジを授けられた。翌日、捕虜になっていた長男ハラルトに手紙をしたため、自分たちが地下壕で最期を迎えること、「私たちの素晴らしい理想はおしまいになります」と記した。1945年5月1日、マクダは6人の子供たちを殺害し、自らも命を絶った。43歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- ガブリエリ・エリ=レギスタン (1945年没)
- 大田実 (1945年没)
- ローザ・シャーニナ (1945年没)
- エルンスト=ロベルト・グラヴィッツ (1945年没)
- ブルーノ・フランク (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- Erwin Keller (1971年没)
- クルト・ハーゼ (1943年没)
- マックス・リーバーマン (1935年没)
- ウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ (1931年没)
- ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ (1902年没)