HISTORICAL PERSON · 紀元前183年没

プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス

共和政ローマの平民出身の政治家・軍人。紀元前205年に執政官を務め、紀元前212年から183年まで最高神祇官の職にあった。長老たちを破って当選し、ブルティウムではハンニバルを撤退させた。

生涯
紀元前183年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェスは、共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前205年に執政官(コンスル)を務め、紀元前212年(213年とも)から没年の紀元前183年まで最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)の職にあった。生年は紀元前238年頃と推定される。リキニウス・クラッスス家で60歳を超えた者はいないと伝えられることから、現代の研究者がそう考えている。

平民のリキニウス氏族の出身である。同氏族は紀元前364年にガイウス・リキニウス・ストロが執政官となったが、その後は長く執政官が出ず、次は紀元前236年のガイウス・リキニウス・ウァルスだった。ディウェスはこの「第二世代」で二人目の執政官にあたり、ウァルスとの関係は不明である。父プブリウスの添え名「クラッスス(太った人)」は子孫の家族名になった。ディウェスとは「金持ち」の意味で、資産が経歴を有利にしたと思われる。弟ガイウスの息子が、紀元前171年の執政官プブリウスと紀元前168年の執政官ガイウスである。

紀元前216年までに神祇官となっていたが、第二次ポエニ戦争で多くの神祇官が戦死したため、短期間で古参の一人になった。紀元前213年に最高神祇官レントゥルス・カウディヌスが没すると、後任の選挙が行われた。候補にはフルウィウス・フラックスとマンリウス・トルクァトゥスという、執政官を複数回、監察官も務めた長老がいたが、予想に反して当選したのは、上級按察官に立候補しようとしていたディウェスだった。人柄や財力、人脈が支持につながったとも、二人の長老が票を食い合ったためともいわれる。神祇官法に通じ、体力や軍事の腕でも知られたが、凱旋式を挙行したことはなかった。

紀元前210年には、独裁官フラックスのもとで騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)に指名された。同年に監察官にも就いたが、同僚ピロが就任直後に死去したため、名簿の改定を終えないまま慣例に従って辞任した。唯一の実績は、不正で有罪とされた元執政官リウィウス・サリナトルを元老院に復帰させたことである。紀元前208年には法務官となり、ローマを離れられない最高神祇官として外国人係を務めた。この年、ユピテルの神官ガイウス・ウァレリウス・フラックスを、伝統に照らして神官職に専念させ、元老院での活動を阻んだことが知られる。

紀元前205年、執政官となった。同僚はイベリア半島での勝利を携えて帰国した大スキピオで、アフリカ上陸を計画していた。ディウェスは最高神祇官としてイタリアを離れられず、老齢のファビウス・マクシムスとの議論でもそう述べた。そのためくじなしでハンニバルのいる南イタリアのブルティウムを担当した。この年は両軍とも疫病に苦しみ、戦闘は起きなかった。翌年も指揮権を延長され、クロトンのハンニバルを攻撃して退却させた。リウィウスは4,000人以上が戦死したと記すが、現代の歴史家は懐疑的である。紀元前203年初めにローマへ戻り、アフリカでの戦争には加わらなかった。その後は最高神祇官として、紀元前200年に誓いの文言を述べ、紀元前194年に「聖なる春」の儀式を行い、紀元前189年には法務官ファビウス・ピクトルがクィリヌスの神官であることを理由にサルディニア赴任を拒んだ。紀元前183年初めに死去し、異例に壮麗な競技会が催され、出席者全員に食物が無料で振る舞われた。この職を約30年務め、誰よりも長かった。人格はキケロが高く評価している。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物