HISTORICAL PERSON · 紀元前68年没

ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前68年の執政官)

名門メテッルス家の出身で、シキリア総督としてウェッレスの後任となり、シュラクサイを占領していた海賊ピラニオンを海陸で破って状況を安定させた。紀元前68年に執政官となったが、就任直後に死去した。

生涯
紀元前68年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・カエキリウス・メテッルスは、紀元前111年ごろに生まれ、紀元前68年に没した共和政ローマの政治家である。紀元前68年に執政官を務めたが、任期中に死去した。平民系のカエキリウス氏族の出身で、氏族は紀元前3世紀の初めに元老院階級となり、紀元前284年にルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが氏族最初の執政官となった。後世の伝説では、火の神ウゥルカーヌスの子でプラエネステの建設者とされるカエクルスの子孫とされ、アイネイアースとともにイタリアに来たカエクスの子孫とする別説もある。メテッルス家は氏族の中でも特に栄え、祖父クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスは紀元前143年に、父ガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスは紀元前113年に、それぞれ執政官を務めた。マケドニクスはマケドニアで王位僭称者アンドリスコスを破って凱旋式を行い、その添え名を得た人物で、ティベリウス・グラックスとガイウス・グラックスに敵対した。カプラリウスは紀元前112年にトラキアで戦い、翌年に凱旋式を挙げた。兄のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスは紀元前69年の執政官で、クレタ島を平定して紀元前62年に凱旋し、ポンペイウスと対立した。紀元前69年の法務官マルクスは弟の可能性がある。姉妹のカエキリア・メテッラは、ガイウス・ウェッレスに嫁いでいた。

執政官就任年と当時のコルネリウス法の年齢制限から逆算して、歴史学者は生年を紀元前111年ごろと推定している。経歴の初めは造幣官で、正確な年は不明であり、紀元前96年、91年から90年、または88年とする説がある。同僚の造幣官はアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスとガイウス・プブリキウス・マレオルスで、三人は表にディアナ女神の横顔とローマの文字、裏に三人の騎兵が歩兵を踏みつける図を刻んだデナリウス銀貨を鋳造した。この貨幣は紀元前89年12月のポンペイウス・ストラボの凱旋式、すなわち同盟市戦争のアスクルムでの勝利に関連するとの推測もある。

おそらく紀元前71年に法務官となり任期の後、ウェッレスの後任として前法務官権限でシキリア属州総督を務めた。シキリアでは、ローマ海軍を破ってシュラクサイを占領していたピラニオン率いる海賊と戦うことになった。メテッルスは海と陸の両方でこれに勝利し、島から退去させた。前総督ウェッレスの強奪的な政策でシキリアは衰退していたが、メテッルスは状況を安定させたとされる。

ウェッレスはローマでキケロに告訴された。キケロは後任のメテッルスの働きを称賛したが、ルキウスと兄クィントゥスがウェッレスの無罪のために影響力を行使していたことには不満を抱いた。特にルキウスは暴力と脅迫を用いて、地元の官職者たちに被告人を称賛する声明を出させ、証人たちがローマへ裁判のために行くのを拒むよう強要したという。裁判は紀元前70年の末に行われ、メテッルス家は有利な立場にあった。ルキウスはシキリア総督、兄は翌年の執政官、末弟マルクスは翌年の収賄裁判所の議長に就く予定だったからである。このためウェッレスは裁判を紀元前69年まで延ばそうとしたが、成功しなかった。

メテッルスは紀元前68年に執政官となった。前年の兄クィントゥスに続いて、兄弟が連続して執政官を務めることになり、同僚はクィントゥス・マルキウス・レクスであった。しかしメテッルスは就任直後に死去した。補充執政官にセルウィリウス・ウァティアが選ばれたが、彼もまもなく世を去った。メテッルスには同名の息子がおり、紀元前49年に護民官を務めている。

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