HISTORICAL PERSON · 紀元前183年没

スキピオ・アフリカヌス

第二次ポエニ戦争後期に活躍したローマの政治家・軍人。カルタゴ・ノウァを急襲して占拠し、ザマの戦いでハンニバルを破って戦争を終結させた。プリンケプス・セナトゥスに3回指名され、グラックス兄弟の外祖父。

生涯
紀元前183年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ県 / Liternum)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ナポリ県)

伝記

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨルは、共和政ローマの政治家であり軍人である。生年は紀元前236年、没年は紀元前183年頃とされる。第二次ポエニ戦争の後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破って戦争を終結させた。妻の甥にあたるスキピオ・アエミリアヌスと区別して大スキピオとも呼ばれ、グラックス兄弟の外祖父でもある。

執政官を輩出した名門パトリキのコルネリウス氏族スキピオ家に生まれ、父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、母ポンポニアはプレブス出身であった。幼いころは敬虔な少年で、神殿に赴いては神々の夢や前兆を見たと伝わる。十七歳のとき第二次ポエニ戦争が始まり、ローマ軍に加わってティキヌス、トレビア、カンナエと敗戦が続く会戦を生き延びた。ティキヌスでは窮地の父を救い、カンナエでは妻の父ルキウス・アエミリウス・パウルスが戦死したが、そのとき残る騎兵を集めて劣勢を挽回しようとしたという。この経験のなかで、ハンニバルの卓越した用兵を目の当たりにした。紀元前212年には周囲の勧めでアエディリス(按察官)となった。法定年齢の三十歳に満たないため護民官が反対したが、人気に押されて異議は取り下げられた。

紀元前211年に父と伯父がバエティス川の戦いで戦死すると、翌年、巧みな演説で元老院を説得し、プロコンスル待遇のインペリウムを与えられてヒスパニアへ派遣される軍団の指揮官となった。公職がアエディリスだけの若者としては異例の抜擢であった。ヒスパニアではカルタゴ・ノウァ(現カルタヘナ)を急襲して占拠し、その財力で現地民を味方につけ、カルタゴの圧制からの解放者という姿を示した。地元部族から贈られた娘に婚約者がいると知ると、金銀を添えて婚約者のもとへ返したという逸話もある。紀元前209年にはバエクラの戦いでハスドルバル・バルカを破り、続くイリッパの戦いでカルタゴの残存勢力をヒスパニアから一掃した。紀元前206年のカディス攻略でローマのヒスパニア支配を確立し、帰国した。

紀元前205年、三十一歳で執政官に選ばれたが、元老院は非攻勢を唱えるファビウスの影響が強く、シチリア島以南への渡航は禁じられ、軍団も与えられなかった。そこで義勇兵を募ってシチリアで訓練し、カンナエの生存者が雪辱を期して応募したという。北アフリカ遠征はファビウスらの反対を受けたが、渡航のみは許された。紀元前204年にウティカ付近に上陸し、翌年にカルタゴ・ヌミディア同盟軍を夜襲で破って、ヌミディアの王位にマシニッサを就けた。孤立したカルタゴはハンニバルを呼び戻した。

紀元前202年、ザマで両軍は対峙し、会見した二人の交渉は決裂した。戦闘では戦象隊の突撃をローマ軍が柔軟な動きでかわして混乱させ、最後はヌミディア騎兵とローマ騎兵が敵の後方を突いて、カンナエさながらの包囲殲滅を実現させた。戦後のスキピオはカルタゴに寛容に臨み、ハンニバルも裁かれなかった。この処置は後にスキピオを弾劾するカトら若い世代の反感を買った。帰国後は凱旋式を許されてアフリカヌスの尊称を授かり、終身執政官や終身独裁官の提案を何度も断り、紀元前199年に監察官に選ばれたが、その後の数年は静かな隠遁生活を送った。紀元前193年には、ローマの同盟国となったカルタゴとヌミディアの紛争の調停役として、再び北アフリカへ赴いている。元老院の筆頭議員であるプリンケプス・セナトゥスにも三度指名された。ギリシア文化への傾倒を非難されるなど敵も少なくなく、カトとの溝は晩年に政治的な対立として表れたと伝えられる。

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