HISTORICAL PERSON · 1163年没

コンスタンス (アンティオキア女公)

ボエモン2世の娘で、2歳でアンティオキア公位を継いだ女公。夫レーモンの戦死後にボードゥアン3世やマヌエル1世の求婚を拒み、ルノー・ド・シャティヨンと再婚。マヌエル1世の助けで政権を握った。

生涯
1163年没
死亡地
レバノン共和国(山岳レバノン県 / レバノン)
出生地
—
出典
世界地図
レバノン共和国(山岳レバノン県)

伝記

コンスタンス・ダンティオケは、12世紀の半ばにアンティオキア公国を治めたノルマン人の女公である。1128年に生まれた。父はアンティオキア公ボエモン2世、母はエルサレム王ボードゥアン2世の次女アリックスで、2人の唯一の子であった。1130年2月に父が戦死すると、わずか2歳で公位を継いだ。母アリックスは摂政になろうとしたが、娘を修道院に入れる、平民に嫁がせるといった噂が流れ、諸侯は反発して、祖父ボードゥアン2世に摂政となるよう求めた。ボードゥアン2世は、アリックスがザンギーに援助を求めたとされることもあって、彼女を摂政から解いてアンティオキアから去らせた。1131年8月21日にボードゥアン2世が、その1週間後に後見人のエデッサ伯ジョスラン1世が亡くなると、アリックスは再び摂政になろうとしたが、諸侯は義兄弟にあたるエルサレム王フルクを推した。1132年の初め、アリックスはジョスラン2世、トリポリ伯ポンスと結んで抵抗したが、フルクは海路でアンティオキアに入り、諸侯に摂政と認められた。

諸侯はより強い統治者を求め、フルクに、コンスタンスの結婚相手を選ぶよう求めた。フルクはアキテーヌ公ギヨーム9世の次男レーモン・ド・ポワティエを選んだが、シチリア王とアリックスの妨害を避けて、この婚約を公表しなかった。1136年4月、レーモンは身をやつしてアンティオキアに着いた。アリックスは、彼が自分と結婚しに来たと信じ込まされ、そのすきに8歳のコンスタンスは宮廷から連れ出され、大聖堂でレーモンと結婚した。レーモンが公となり、アリックスはラタキアで隠遁した。1149年6月29日、レーモンはヌールッディーンとのイナブの戦いで戦死した。4人の子はまだ幼く、ヌールッディーンはオロンテス川より東の公国領を占領した。コンスタンスの従兄弟であるエルサレム王ボードゥアン3世が摂政となって、講和を結んだ。

1150年の夏、ボードゥアン3世は再婚を勧め、3人の候補を示したが、コンスタンスは応じなかった。2年後には、叔母のメリザンドとホディエルナに会いにトリポリへ行き、ここでも再婚を迫られたが、約束をせずに帰った。ビザンツ皇帝マヌエル1世は、中年で寡夫の義兄弟ヨハネス・ロジェリオス・ダラセノスを送って結婚させようとしたが、コンスタンスは嫌悪を示して拒んだ。拒んだのは、すでにフランク人の騎士ルノー・ド・シャティヨンと出会っていたからだという。ボードゥアン3世の許しを得て、1153年の初めに2人は結婚し、ルノーが公となった。しかしルノーは成り上がり者と見られて人気がなく、たびたび金を取り立て、拒んだエメリー大司教を拷問し、マヌエル帝とも対立した。1160年か1161年の11月、周辺を襲撃中に、アレッポの領主の軍に捕らえられた。

コンスタンスは自分ひとりで公国を治めると宣言したが、諸侯は男性の君主を好んだ。ボードゥアン3世は、15歳の息子ボエモン3世こそ正当な公だと宣言し、エメリー大司教を摂政にしたが、コンスタンスは従わず、マヌエル帝を後ろ盾にして対抗した。皇帝は、甥のアレクシオス・ブリュエンニオス・コムネノスらを送り、皇帝とコンスタンスの娘マリーとの婚約をめぐる会談を始めさせた。婚約は成立し、皇帝の代理人は、コンスタンスを公国の統治者と認めた。1163年、ボエモンが成人すると、コンスタンスはビザンツのキリキア統治者の支援を得ようとしたが、諸侯は手を組んで彼女を追放し、公国の統治権はボエモン3世のものとなった。追放された彼女は、まもなく、ラタキアかビブロスで亡くなったという。

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