伝記
ボードゥアン3世は、1130年に生まれ、1163年2月10日に没したエルサレム王である。父はエルサレム王フルク5世、母はメリザンドで、王国建国から3代目の統治者として生まれた。1歳のころ、祖父ボードゥアン2世が没すると、後継をめぐって両親が争ったが、やがて和解し、メリザンドは弟アモーリーを身ごもった。1143年、フルク5世が狩猟中の事故で没し、13歳のボードゥアンは母とともに共同統治者として即位した。若い王は複雑な政治にあまり関心を示さず、女性と子供の統治となった王国では、北方のトリポリ、アンティオキア、エデッサがエルサレムからの独立を強めた。1144年にザンギーがエデッサを攻め落とすと、西ヨーロッパに衝撃が走り、新たな十字軍が計画された。ザンギーは1146年に暗殺され、その政策は息子ヌールッディーンが引き継いだ。1147年にダマスカスの領主ウヌルがエルサレムとの協定を破ってヌールッディーンと結ぶと、ボードゥアンは出陣したが、ボスラにヌールッディーンが現れたため撤退した。その途中で攻撃を受けたが、騎士たちを勇敢に指揮して追い返し、のちに協定が結び直された。
1148年にフランス王ルイ7世、王妃アリエノール・ダキテーヌ、ローマ王コンラート3世らの十字軍がエルサレムに着くと、ボードゥアンは諸侯と話し合い、ダマスカスを攻める方針に同意した。4日後に包囲を始めたが失敗し、十字軍は1149年までに帰国した。ヌールッディーンはイナブの戦いでアンティオキア公レーモンを討ち、ボードゥアンはアンティオキアへ急行して摂政となった。公の未亡人コンスタンスと結婚して公国の継承権を得ようとしたが、失敗したとされる。1150年8月には、エデッサ伯国の残された領地トゥルベッセルをビザンツ帝国へ譲らされたが、攻撃を受けながらキリスト教徒の住民を守って退避させた。1152年には、母とともに、叔母オディエルナの夫であるトリポリ伯レーモン2世との紛争を調停しに行った。その帰りがけにレーモン2世が暗殺され、ボードゥアンは事後処理のためにしばらく滞在した。
同じ1152年、成長したボードゥアンは、母メリザンドと軍司令官マナセスに不満を募らせた。総大司教に2度目の戴冠を求めて断られると、自ら月桂冠を戴き、エルサレムの大通りを行進した。協議で王国は分けられ、ボードゥアンは北部のガリラヤ、アッコ、ティルスを、メリザンドは南部のユダヤ、サマリア、ナーブルス、エルサレムを得たが、数週間後にボードゥアンは南部へ攻め込んだ。マナセスはミラベル城で敗れて亡命し、メリザンドとアモーリーはダビデの塔へ逃げ込んだが、休戦が結ばれ、メリザンドはナーブルスを領有することになった。1153年にはファーティマ朝のアスカロンを落とした。1154年までに母と講和し、その政治の手腕を重んじ続けた。同じ1154年に、ヌールッディーンがダマスカスを占領した。
1157年、ボードゥアンはビザンツ皇帝マヌエル1世のもとへ使者を送り、皇帝の姪テオドラとの結婚を取り決めた。この同盟で、アンティオキアにおけるビザンツの宗主権を認めた。結婚式は1158年9月に挙げられ、ボードゥアンは28歳、テオドラは13歳だった。1159年にはアンティオキアでマヌエル1世と会い、二人は良き友人となった。ボードゥアンは継嗣を残さずに没し、王位は弟アモーリーが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥルムウミン (1163年没)
- シグル・マルクスフォスター (1163年)
- コンスタンス (アンティオキア女公) (1163年没)
- ラースロー2世 (ハンガリー王) (1163年没)
同じ地域に関係する人物
- カミール・シャムーン (1987年没)
- ラシード・アッ=スルフ (2014年没)
- アリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニー (1974年没)
- アミーン・フサイニー (1974年没)
- イリヤース・ハラーウィー (2006年没)