HISTORICAL PERSON · 1916年没

エリサベタ (ルーマニア王妃)

ルーマニア国王カロル1世の王妃。カルメン・シルヴァの筆名で詩や小説を書き、露土戦争中には負傷兵の救護にも当たった。

生涯
1916年没
死亡地
ルーマニア(ブカレスト)
出生地
ドイツ連邦共和国(モンレポス城 (ノイヴィート))
出典
世界地図
ルーマニア(ブカレスト)

伝記

エリサベタは、1843年12月29日、ライン川沿いのノイヴィート近郊のモンルポ城で生まれた、ルーマニア国王カロル1世の王妃である。ドイツ語名はエリーザベト・パウリーネ・オッティリーエ・ルイーゼ・ツー・ヴィートといい、「カルメン・シルヴァ」の筆名をもつ詩人・小説家でもあった。ドイツの小さな侯国ヴィートの侯爵ヘルマンと、妃マリー・フォン・ナッサウの長女である。母は、ルクセンブルク大公アドルフの同母妹にあたる。幼い頃から芸術に傾き、子供時代には降霊会を行ったり、精神病院を訪ねたりしたという。

16歳ごろ、イギリスのヴィクトリア女王の長男でプリンス・オブ・ウェールズのアルバート・エドワード(のちのエドワード7世)の花嫁候補となった。女王は彼女を強く推し、長女のヴィクトリアに調べるよう促した。エリサベタは社交の季節をベルリンの宮廷で過ごしていたが、ヴィクトリアは、エドワードのいつもの好みとは正反対だと母に伝えた。写真を見せられたエドワード本人も心を動かされず、結局デンマークのアレクサンドラが選ばれた。エリサベタが未来の夫のカロルと最初に出会ったのは、1861年のベルリンである。1869年に、ルーマニア公となったカロルが花嫁を探してドイツを訪れ、再会した二人は1869年11月15日にノイヴィートで結婚した。一人娘のマリアを1870年にもうけたが、1874年にわずか3歳で亡くし、エリサベタはその悲しみから立ち直ることがなかった。1881年にルーマニアが王国となると王妃になり、夫とともに戴冠した。

1877年から1878年の露土戦争(ルーマニアでは独立戦争)では、負傷者の看護にあたり、功績をたたえるための勲章「エリサベタ王妃十字章」を創設した。盲人のための全国協会を設立し、ルーマニア赤十字社の最初の王室後援者となった。ルーマニアで女性の高等教育を支援し、多くの慈善団体も立ち上げた。ピアノ、オルガン、歌に優れ、絵画も巧みだったが、詩的な想像力は彼女を文学に向かわせた。「カルメン・シルヴァ」の名で、ドイツ語、ルーマニア語、フランス語、英語で巧みに書き、詩、戯曲、小説、短編、箴言集など多くの作品を残した。最初の出版は1880年にライプツィヒで刊行した二つの詩である。散文の箴言集『ある王妃の思想』(1882年)により、1888年にアカデミー・フランセーズの賞を受けた。侍女の一人ミテ・クレムニッツと共作した作品もある。ルーマニアの農民の間に伝わる伝説の多くを文学の形にまとめもした。

1881年、子のないカロル1世は、次の王位を甥のフェルディナンドに譲ることに決めた。ルーマニアで全くの外国人だったフェルディナンドは、エリサベタの侍女エレナ・バカレスクと親密になった。エリサベタ自身もエレナと仲がよく、結婚を許されない二人の恋を応援した。この結果、エリサベタはノイヴィートへ、エレナはパリへ出ることを余儀なくされた。この旅行は、フェルディナンドの花嫁を探す密命も帯びていた。その花嫁候補に白羽の矢が立ったのが、イギリスの王族マリー・オブ・エディンバラである。エリサベタは1916年3月2日にブカレストで亡くなった。ヨシフ・イヴァノヴィチの作ったワルツ「カルメン・シルヴァ」は今も演奏され、エネスクは彼女が主催した演奏会に参加し、詩による歌曲も残している。

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