伝記
ショーレム・アレイヘムは、1859年3月2日(ユリウス暦2月18日)に、キエフ近郊のペレヤスラウで生まれたウクライナ出身のイディッシュ語作家、劇作家、ジャーナリストである。本名はソロモン・ナウモヴィチ・ラビノヴィッツで、「ショレム・アレイヘム」はイディッシュ語で「あなたに平和を」を意味する日常の挨拶であり、筆名として採った。彼はポルタヴァ県の近くのシュテットル(ユダヤ人の町)、ヴォロンキウで育った。ヴォロンキウは、のちの作品に出てくる町カスリレフカのモデルになった。父ノーヘム・ラビノヴィッツは当時は裕福な商人だったが、商売の失敗で一家は貧しくなり、ソロモンは苦しい暮らしの中で育った。13歳のときに一家はペレヤスラウに戻り、母チャイェ=エステルはコレラの流行で亡くなった。
最初の執筆は、継母が使う悪口を並べたアルファベット順の用語集で、15歳でユダヤ版『ロビンソン・クルーソー』を書いた。1876年にペレヤスラウの学校を出てから、教師の仕事を始めた。1877年から1880年には、ボフスラフ地方のソフィイカ村で、裕福な地主の娘オリガ(ホデル)の家庭教師を3年間務めた。1880年から1883年までルブヌイで官選のラビを務めた。1883年5月12日、地主である彼女の父の反対を押し切ってオリガと結婚し、数年後、この父の財産を相続した。1884年に最初の子、娘エルネスティナが生まれ、その後も子供に恵まれた。しかし事業への投資で家の財産は少しずつ減り、1890年までに破産した。一家はキエフを離れてオデッサに移り、義母が債権者との間で和解をまとめた。
少年時代から執筆活動をしており、オデッサやキエフなどでジャーナリストとしての生活に入った。1889年にキエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』を創設した。これは、自らの伝統の豊かさに源を求めながら、周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することで、輝きを失ったイディッシュ語文学を再興しようとしたものである。はじめコンパクトな短編で読者の心をつかみ、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばした。連作の短編には『牛乳屋テヴィエ』があり、のちの『屋根の上のバイオリン弾き』の原作となった。長編には『嵐の中で』などがある。シュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多く、イディッシュ語の口語性を見事に活かした。メンデレ・モイヘル・スフォリム、イツホク・ペレツとともに、イディッシュ文学の第一世代・師とされ、「饒舌な口語体」で、イディッシュ文学の大衆化に道を開いたといわれる。
1905年にアメリカに渡り、1906年の滞在中にマーク・トウェインと会った。トウェインは「私がアメリカのショーレム・アレイヘムです」と自己紹介したという。のち一時ヨーロッパに戻ってイタリアに住んだが、1914年の第一次世界大戦の勃発で、再びニューヨークに移住した。1916年5月13日、結核と糖尿病を併発して、ニューヨークで亡くなった。葬儀には10万人が参列した。ニューヨーク市クイーンズ区のマウントカーメル墓地に埋葬され、生前に決めていた文面が墓石に刻まれた。アメリカや故郷のウクライナなどに記念碑が建てられている。
同じ年に亡くなった人物
- 大山巌 (1916年没)
- コルマール・フォン・デア・ゴルツ (1916年没)
- 袁世凱 (1916年没)
- フリードリヒ・エルンスト・ドルン (1916年没)
- エドワード・ピアソン・ラムゼー (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- レジーナ・レズニック (2013年没)
- ロサリン・ヤロー (2011年没)
- ヘンリー・ジョージ (1897年没)
- ピーター・クーパー (1883年没)
- デヴィッド・ボウイ (2016年没)