伝記
シャルル・ウジェーヌ・ド・フーコー・ド・ポンブリアンは、1858年9月15日にストラスブールで生まれた、フランスのカトリック教会の神父であり、探検家、地理学者である。「砂漠の霊性」と呼ばれる現代の信仰の源泉の一人とされる。父方は、ペリゴール地方の古い貴族の家柄で、家訓は「決して退かない」であった。父エドゥアールはストラスブールの森林副監督官で、先祖には十字軍に加わった者や、アンリ4世の友人がいた。母はロレーヌの貴族の血を引く、裕福な大佐の娘エリザベートである。シャルルは両親の二人目の子であったが、6歳で両親を亡くして孤児になり、普仏戦争が始まると、祖父とともに移住した。ヴェルサイユのイエズス会系のリセを経て、1877年にサン・シール陸軍士官学校に入り、放埒な軍人生活を送った。
1880年にアルジェリアのセティフに士官として派遣されたが、翌年「規律違反と著しい不品行」で免職となり、のちに復帰して、ブアマーマ首長との戦いにも加わった。1882年にモロッコ探検に乗り出し、ユダヤ人になりすまして踏査した。その調査と記録の質の高さにより、パリ地理学協会の金メダルを授かり、1888年に発表した『モロッコ踏査』で、大きな名声を得た。ところが1886年ごろから、精神的に激しく動揺するようになり、「神よ、もし存在するなら、私があなたを知るようにしてください」と祈りながら教会に出入りしていた。10月30日に司祭アンリ・ユヴランと出会い、告解したことが、生涯の決定的な転機になった。名声が頂点に達しても、彼にはもはや何の興味もなかった。帰国後は、パリのサン・トーギュスタン教会に通った。
1888年11月に、イエス・キリストの足跡をたどって聖地を巡礼し、強い衝撃を受けた。1890年に厳律シトー会、いわゆるトラピスト会に入会し、フランス国内やオスマン帝国領シリアの修道院で過ごして、後に霊性の中心となる多くの黙想を書き留めた。1897年から1900年までは、ナザレなどの聖地で暮らし、貧しさと犠牲、徹底した悔悟の理想を求めて、次第に隠遁者の生活を送るようになった。1901年6月9日にヴィヴィエで司祭に叙階され、アルジェリアのサハラのベニ・アッベスに定住して、奴隷制の「怪物性」と戦った。新しい修道会を作ろうとしたが、誰も加わらなかった。ベルベル人とともに暮らし、言葉による説教よりも、模範によって示す宣教を実践した。
トゥアレグ族のことをよく知るため、12年以上その文化を研究し、偽名で最初のトゥアレグ語とフランス語の辞典を出版した。辞書編纂者としての仕事は、トゥアレグ文化を知る基準とされる。1916年12月1日、彼はタマンラセットの隠棲所の門前で殺害された。フランス支配に反発したサヌーシー教団が差し向けた刺客によるともいわれ、無法者の一団の仕業とする説もある。死後まもなく、その生と著作に触発されて、新しい修道会や霊的家族が生まれた。2001年4月24日にヨハネ・パウロ2世により尊者とされ、2005年11月13日にベネディクト16世により列福され、2022年5月15日にフランシスコ教皇により列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- 夏目漱石 (1916年没)
- トリフコ・グラベジュ (1916年没)
- ティーボー (1916年没)
- エドゥアルド・ナープラヴニーク (1916年没)
- ウィリアム・ラムゼー (1916年没)
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